2005/12/12 月曜日

義経の見据える先は・・・浄土

Filed under: 大河義経 — patra @ 20:17:53

昨日は父の1周忌の法事を友引にもかかわらず献花方式で小さなホテルで和やかに行いました。親戚のほとんどお寺さんなので葬儀の少ない友引が彼等の良い日にちなのでお線香の匂いを遠慮し献花にしたのです。お隣では結婚式だし・・・(笑)
そんなわけで再放送を見るのみで感想を書いては見たのですが、どうも何かピッタリとしない。
父の唯一見るドラマが大河・・最終日と重なってしまったのも不思議ですが・・一晩寝て考え直してみるとある事に気がつきました。
黛りんたろうさんの狙おうとしていた部分、もっとも不評な部分である「夢の国、新しき国」黄金色に輝く屏風の意味するところは、下手をすると陳腐になりそうなギリギリの所で我々現代人に生死感・・・浄土信仰の様な思想を本当は伝えたかったのでは?と思い当たったのです。

人として生れ死に行く先は皆同じ・・なのに浄土へ楽々と行けるお人と120年の長きを彷徨う怨霊として生きるしかない魂があるとしたら、その境界は一体何処なんだろう。

義経さんの描かれ方は「純粋、愚直なまでの真直ぐさ・・」だった。もどかしくヤキモキしながら「もっと賢い生き方が在るよ」画面に向って何度となく吠えても見た。
現代の物差からすると、けっして利口な生き方では無い。

が、昨日義経さんの最期を見ていて持仏堂から天突き抜けるような真直ぐな光りの束と共にあの白い天馬が駆け登る、ちょいと呆気にとられるCG処理・・・(俄には理解できなかったが)何回も咀嚼して考えてみたら、黛さんの人柄を重ね合せ思うと、あ、これは誰もが心深くには思うことでも気恥ずかしくて口には出さない「魂の浄化」を描きたかったのでは?とそう気がついたのだ。

複雑な現代に於いて人の多様な心は口で何と上手に取り繕うとも本当に浄化できる魂の存在というのは、その持ち主の心根、根幹にしか宿らない。そうした意味で言えば同じ勇猛果敢な平知盛が死して怨霊となる事で執着地獄の怨みを表現し、生き方の下手な義経さんが「夢の都・・新しき国<言い換えれば西方浄土」を心に描き誰をも怨まず死にゆく覚悟は悟りなのだ。
導きの光りとして天馬駆け登る映像を我々に見せてくれたあの唐突なイメージこそ義経さんを企画した時から監督の脳裏に在ったメインテーマなのだろう。
伝えたかったのは運命には勝つも負けもない!安らぎは悟りのみ!。「魂の救済は己自身の中」といった意味で考えるとあの持仏堂の神々しい光はとても多くを示唆しているように思えた。

無慈悲、理不尽な死を迎えてしまう幼子も多い現代、あの天に向って駆け登る天馬のような光りが奪われた無垢な命の代償として浄土からのお迎えの印としたら・・・これは救われるし信じたい。
安易な表現・・に過ぎる?と一度は思ってみた昨夜だが一晩寝て、私の知らない父の沢山なエピソードを聞く事で知り得た人間の真の仏性とは・・・生れ落ちた時から自然に備わるものの様な気がしてきた。すると義経さんと弁慶、主従が口ぐちに求めた「新しき国、夢の国」も彼等に自然に備わる仏性・・そう考えれば、その夢の国で再び逢うことは可能であり誰もが心掛ければ必ず行ける浄土なのだから義経郎党が脳裏に浄土を思い描いていれば嬉々として死んでゆくのも頷ける。
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2005/12/5 月曜日

義経「北の王者の死」

Filed under: 大河義経 — patra @ 0:36:48

藤原秀衡の温情溢れる眼差しに出迎えられた義経主従はさぞ「ホ」とした事だろう。
「何も申されるな・・・何もかも全て飲み込んでお引き受けする」なんという男の余裕と度量。
義経さんの夢の国の話さえ笑みを持って「ここで鎌倉とは違う新しき国を目指してみるか?」

実の親より親らしい恩恵を実社会でも受けることが良くあるが、肉親の柵ではない1ッ歩引いた冷静な俯瞰で物事を見、判断し適確な助言ができるのは圧倒的に他人からの事が多いものだが、そんな他者からの温情に恵まれた義経さんの、人を引き付けて止まない魅力が飛び抜けていたのだろうが大河では書き切れてはいない。

佐藤兄弟の遺髪を見せる部分は本来ならば切ないシーンのはずだが泣けない。
吉次からの様子で静のお腹に居た子が男子で、しかも既に死んでいるのでは、と察知する義経と
弁慶・・ここの書き方も残念ながら胸に迫るものは何も無い。
わざとらしいシーンを入れるのは実は子は生きていた・・に繋げるのか??。
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2005/11/28 月曜日

義経「安宅の関」

Filed under: 大河義経 — patra @ 2:19:07

ありがとう、石橋蓮司さん!
観終わって叫んだ私に息子夫婦が笑いながら「脇で随分助かっているよね、良かったよ!」と言ってくれました。
久しぶりの夕食を一緒に下で食べるには「義経」が始る前に椅子に座ってね、と内線電話をしたくらい最後の追い込みです(笑)。が今朝の夢では黛さんが「今日は僕ではありません」と言ってらしたのでその事をフミちゃんに次いでに話すと「あ、ほんとだ」とタイトルを観て笑いました。

だから気楽に中華風豚と野菜の炒めもの、胡瓜とワカメの中華スープ、白菜の漬け物などで義経ディナー、でも静かに画面に注目・・・

いよいよ逃げ行く先は北陸道、すっかり汚れた山伏姿の郎党・・焦りと窶れがみえます。義経主従の動きもどうやら鎌倉殿には読まれている模様、さらに厳しい道のりが待っています。

一夜の宿を頼んだ猟師の所で何と巴に遭遇する義経さん、猟師に助けられ子を産み母の顔の穏やかな巴はモヨと称し「今生きていて、しみじみ良かったと・・・私を生きさせたのは貴方さま」・・・
「私も少しはお役に立ったのか、ならば良かった」と答える義経さん。
「諦めぬことじゃ、さすれば道はありましょう」この別れの言葉を伝えるモエは昔の巴のようにキリリとした瞳・・このエピソードは義経さんの優しさを現す意味で悪く無いと思うが、郎党の夢の語らいには苦笑も無きにしもだが、人間、苦境や極限の時に全くユーモアが無いか?と言うとそんな事は無く、かえって自らを振るい立たせるが毎くハシャグものだ。危険がせまる中の一時の夢想はかえってリアルな郎党達の胸中だと思う。

そして安宅の関へ・・・ずずっと引き込まれて観終わって、改めて石橋蓮司さんの演技にお礼を言いたい気持ちで一杯でした。
歌舞伎でもこの「勧進帳」のシーンは大袈裟なもので、もっとも有名、さてどうなるか?と思いましたが、冨樫とのやりとりで「何か?」と言いつつ弁慶の肩がジリッと義経さんを隠す辺りから・・隠居、目が弁慶と冨樫に釘付け。

切迫した問答の末、ついに勧進帳を空で読む件、冨樫にも嘘か判断つきかねる辺りの演技が実に素晴らしいったら無い。
「泉坊の不審あり!」懐の笛を咎められ「そなた真に山伏か・・?」

進退極まった弁慶、咄嗟に義経の懐から笛掴み叩き捨て六根棒で義経さんを思いきり叩きのめします。「まだ盗み癖が直らぬか」泣きながら笛も踏みにじり尚も腰を叩く弁慶の余りの勢いに冨樫泰家・・・この時の目の演技を観ることが出来ただけでも満足でした。
泣いているんです、ホントに・・・。
「先達殿! もう良い。」
「笛のいきさつ得心いたした」
家来に渡された酒の瓢箪と共に義経の側に来た冨樫の「したたかに打たれ今宵は痛さで眠れぬやも・・・其の時は酒で痛みを和らげるが良い。 盗みは致すなよ」
「・・・・」義経じっと冨樫を視る。

冨樫の目に多分一番鳥肌がたったであろう人は滝沢義経さんであるまいか。

「久郎殿・・」

昔から大好きな役者さん石橋蓮司さんに感謝した夜。この冨樫の目だけで統べての了見を察知する演技、並大抵では無い。とてもじゃないが軽いものになってしまったであろうからこの冨樫役、引き受けてくださった演出家としても優れている役者、石橋蓮司さんに配役を振ったスタッフにも敬意を表したい。
歌舞伎ならば蹴れんで引っ込む大見得の所をジワジワと涙ぐみながら鑑賞しました。
関を抜けた所で弁慶の大泣き・・
「弁慶、手をあげよ、そちの苦しみは我が苦しみ、そして皆の苦しみじゃ」
答える義経さんの顔も良かったです。

2005/11/20 日曜日

’しずやしず・・’

Filed under: 大河義経 — patra @ 23:37:04

正直に言います。隠居、今回は泣きました。黛さんの辛抱の演出が実ったからです。

先週のどうにも感想を書けない理由は脚本は言うに及ばずそれ以上に演出の緩さ、緊張感の無さに絶望した事もあるのです。隙間だらけ。
吉次の納屋へ身を隠くす境遇の義経郎党どもの声音、ひそませるでもなく、裏につないだ船、みせるのは良いとしてもすぐ戸を閉めるでもない、あたりを憚る気配もない隙きだらけでずさんな演出に嫌気がさしたわけですが・・・今回流石に黛さん!良く考えられた細やかな展開でした。

静の情報を運ぶ郎党の出入りも必ず戸を閉め、あたりを憚るように声をひそめる・・

こうした当たり前の所作一つでも隅々まで注意が行き届くのとそうで無いのとでは、同じ役者でも雲泥の差、基本を疎かにしていると「絵」は決して立ってきません。

磯の禅尼が尋ねてくる所は、重要な布石になっていて台詞も生きています。義経とのやりとりに女親の気持ちが良く表れているからです。「静の気持ちをどうぞ無駄にせぬように・・厳しい詮議に何も答えなかったのは皆様方の身を庇ってのこと・・」
それでは男が廃るとばかり尚、助け出そうとする義経を「そのお言葉だけで充分でござります」に泣けました。
この時の義経さんの「・・」無言で反芻するような眼差し、辛い男の目になっていました。

佐藤忠信が輿に切り込む姿、これも泣けました。唯一人の武士である忠信が誰をも頼まず、乞食と見紛う姿で連夜の探索をつづけていただろう事が、その扮装からも容易に想像でき「男」の心情が狂わんばかりの責任感となって切り込む姿と重なります。たった独りの孤独な闘いこそ武士たる美学と言うもので忠信らしい最期でした。
傷つき倒れた忠信を翁の機転で運ぶ繋がりも自然です。
「平泉へ行くぞ」と言う声を聞き一瞬輝き、そして死んでゆく姿に泣きました。それにしても何と綺麗な死に顔だろう。

鎌倉でいよいよ頼朝に詮議される静、涼やかで厳しい目、石原さとみさんに終に静が降臨しました。
見事です。ここの無駄のない演出、たたきこむような緊張感。

「是非にお尋ねしたい事が・・・」「聞こう」「御弟であり、平家追討に功ある義経殿をなぜ討たねばならぬのでしょうや?評判への妬みでしょうや?憎しみでしょうや?」それに答える中井頼朝の完璧な間と表情の「・・弟ゆえじゃ」
二人の演技、鳥肌がたつくらい出色でした。
この静の台詞に込められた重さをよくぞ表現出来た天晴れなさとみさん。
出産のシーンも迫真で妖気せまりしかも美しい、舞う姿もこれ以上綺麗に静を撮ることは不可能であろう・・それくらいの緻密さが光る演出でした。

「しずやしず、しずのおだまき くりかえし・・」
今の今まで画面では静と義経さんが「愛のことば」といったようなものを交わさずに居て一体どこにあの狂おしくも有名な恋の歌を詠むことが結びつくのだろうか?
二人の何処にこの歌のような情念が・・といささか心配だった隠居、この歌い舞う静の恋がいかに命がけであったか、しっかりと観てとり又も泣けました。

政子や頼朝の演技を越えた見事な表情などから沢山の想像が膨らむ今回は素晴らしいの一語に尽きる。

山中で追っ手と闘う義経さんに降る紅葉、静御前の舞台に舞う紅葉、あらゆる所に黛演出の冴えが光ります。

我慢に我慢を重ね役の中で育ってくる役者の閃きを信じ、「辛抱の美学」に賭けた黛監督の勝利した石原「静御前」でした。滅茶苦茶泣けました。

無精髭の滝沢義経がどんどん男の顔になるのも楽しみです。

2005/11/14 月曜日

おやすみ

Filed under: 大河義経, — patra @ 2:47:50

ゆり

見るには観たのですがどうにも感情を入れこめないうちに終わりました。
脚本家はきっと宮尾さんの原作が終わった時点あたりからどんどん収拾がつかなくなってしまったのでしょう。回毎にそのつど辻褄を合わせるだけの台詞に本気で感想を述べる気力が失せました。
皆さんには申し訳ないけど良いも悪いも何も無い、一生懸命な役者さんには頭がさがります・・・感想は無しでしつれいします。

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