2004/8/9 月曜日

1945年8月9日11時02分

Filed under: 時代 — patra @ 3:59:37

長崎に原爆が落ちた日・・・広島からたった3日後だ。そしてついに15日の終戦を迎えることになる。「原爆の日の写真」で有名な畑山庸介氏のおにぎりを持った防空頭巾の坊やの眼差しも忘れられない。

その前年、私は2歳、1944年3月10日に東京、大空襲、浅草を焼けだされて流転の末、日光の山奥へ疎開をしていた。
東京人は伝手がないと田舎へ疎開もままならず、あらゆる縁故をたどって家族を疎開させたのだ。選り好みなどできる状況ではなかった。
きれいな空気、緑、豊富な食料、若い私の両親はこの日光の陽ざしを楽しんだ。戦争の実感が彼等にはまだ遠かったのだろう。
ところが想像以上に日光の冬は恐ろしい厳しさだった。とても東京っ子の身体がもたない、意気地なく逆戻り、そして住宅公団の都営住宅が当たり船橋に落ち着いて半年目の夏を海辺で迎えていた。曲がりなりにも1軒家だ。私は転んでばかりいる発育不良の3歳になっていた。
お握りの坊やと丁度おなじ年令に戦争が終わったのだ。

我が家の戦争は終戦から始まった。なぜならその年の秋、母が不注意から禁止されていた電気コンロを使い火事を出してしまったのだ。
1945年10月2日午後4時過ぎ・・・に本当に裸一貫になった父母の奮闘がはじまった。
意外にも、民主化に目覚めた警察は非常に丁寧で母の不注意も一切のお咎めなしで無罪放免だった。それは敗戦のショックで国中が「みょ〜な連帯感」に包まれていた時代の賜物だったのか。一晩留められた取り調べにも、憲兵から警察官に名前が変わっただけ、それ以上の気配りで同一人物か?と疑うほどの対応だった・・・と母は未だに不思議がる。

私は、泥の水田に落ちた馬を畦道から男達が必死で助け起こそうとしていた姿を鮮明に覚えている。同じ敗戦の夏だった。


2004/8/8 日曜日

「満腹と満足」はイコール

Filed under: 料理 — patra @ 2:51:08

気合い十分に作った応援ディナーは久しぶりのホット・ローストビーフだ。今回はソースをひと味工夫、肉汁のグレービーを醤油味で煮詰めたところへ蜂蜜を一匙加えてほんのり甘味を出してみたらお肉に合ってとても美味しい。
蜂蜜やメイプルシロップは味醂より風味が良いので甘味調節にとても便利、ただし煮ないで混ぜるだけ。
このくらい食べるかな?と余計に切った二切れが、やっぱり売れ残った。もうみな若くは無いという証拠かな。

仕事漬けの息子、最近は全く飲まないのに珍しくお相伴で一口だけビール、何時もより賑やかに乾杯して気合い。「勝ってくれないと・・・」とフミちゃんが呟くので私も慌てて頷く。今のところサッカーしか楽しみがない息子だものなぁ。

食事が終わると息子とフミちゃんはTVに向かって姿勢を正すし、無闇に騒ぐと「煩いよ」と怒られる始末。緊張の応援がはじまった。

むかし坊やみたいだった川口が凛々しい武者眉になって大活躍!ライオンヘアの中澤の鉄のガード!そして終にジーコ監督のあんなに笑う顔はみたことない!そんな破顔一笑につられて単純に喜ぶ私達。
アウェイでこれだけ勝てたなんて日本選手も根性がある。
まったく安上がりだけど楽しい娯楽が終わりドッと疲れが出たところへ老人が水浴びに降りてくる。

「優勝したよ」と声をかけると「うん、上で見てた。・・でどうなるんだ?」と間のびしたように聞くので息子が
「これでアジアチャンピオン連覇八年とコンフェデの出場権獲得だよ」と答えると、
「なんだ、それだけのことか」とあっさりと一言。勝ちも負けもない彼の余生は穏やかなり。
 
急激な眠気が襲ってきて困ったけれど「冬のソナタ」のあまりにも唐突な展開に一遍で目が覚めた。


2004/8/7 土曜日

90歳の陽水さんと小室等さん

Filed under: 未分類 — patra @ 4:22:17

昨日、いや一昨々日になるかな、陽水さんの番組でフォーク歌手達が30年ぶりの同窓会をしていた。番組の終わりに次ぎの30年後はどうなっているだろうか?とディレクターに質問された小室等が「せめて今のメンバーを、誰だか覚えていたい・・」と話していたけど・・・
 
大丈夫!、音楽や楽器をやっている人はなぜか頭は惚けないよ。その証拠に我が父はギターが趣味だけれど、散歩も運動も無縁の92歳で去年大病したのにも拘わらず復活。
指を使うせいじゃないだろうか?
「水浴びの回数が・・・前に戻ったよ」と今さっき3度目のシャワーを浴びてゆらゆらと2階へ。
私にはとても真似できない気力です。1晩に3回ですよ!凄い。
今日はサッカー応援なので只今料理の仕込み中。


2004/8/6 金曜日

アンリ・カルティエ・ブレッソン

Filed under: 人物 — patra @ 21:47:40

「決定的瞬間」という言葉を生み出したフランスの伝説の写真家だ。20年前にも10年前にもパリの電話帳から彼の名を探しだそうと努力した。
絶対にお会いしてインタビューしたい!と勢いこんで。でも何処にも
ブレッソン氏
の名は記載されていなかったのだ。当然だが・・・。

今朝の新聞に今月3日、南仏東部セレストの別荘で95歳で亡くなられていた、と発表されていた。
写真の原点の何たるか、をおしえてくれた「マグナム」の創始者が遂に逝かれたのだ、偉大な巨星。

私が最も影響を受けたカメラマンなのだ。パリへ行く機会があると、あぁ、この空の下の何処かで彼はファインダーを覗いて居たんだなぁ・・・と何度も写真集と見比べて面影を追ったものだが、いかんせん旅人には滞在時間が短すぎて・・・パリさえ広すぎた。
 
もっとも好きな彼の「ショット」は第二次大戦終了のパリ解放の日、少年がワインを2本、両腕に抱えカフェの町角からこちらに向かって歩いてくる瞬間だ。
少年の笑顔は戦争が終わった喜びに満ちている正に”希望の”「決定的瞬間」そのもの。
CMやファッション写真は時代とともに腐る、流行だけを追ってはいけない、とブレッソンの写真から学んだ。


だから嫌なのよ!

Filed under: 時代 — patra @ 1:15:27

何が?と母の顔をみると
「だって私が太るのは、こうやって少しづつ残すお爺ちゃんのせいだもん」
そういってお皿のおかずを口へ放り込み、ついでに私の残した素麺もたいらげました。ふふ、そうかもしれん。
 
戦争中も戦後もどうしたら家族にお腹いっぱい食べさせられるか?ばかり考えて暮らしていた頃の母のウエストは52センチだった。

疎開先で捨てられていたマグロの頭を貰って来た母、露端で苗を売ってイワシを手にいれた母、恥も外聞もない勇気に支えられて戦後を乗り切ったのだ。
つい忘れそうになってしまうけれど「あなた」がいなかったら意気地なしなインテリの父は戦後を生き抜けなかったろう・・
問題だらけでもこの点において何時も最大級の賛辞を贈りたい。
「ホント、何でこれっぽち残すんだろうね」

今日は広島に原爆が落ちた日。日本人がそれぞれの原点に返る日だ。


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