昨日は父の1周忌の法事を友引にもかかわらず献花方式で小さなホテルで和やかに行いました。親戚のほとんどお寺さんなので葬儀の少ない友引が彼等の良い日にちなのでお線香の匂いを遠慮し献花にしたのです。お隣では結婚式だし・・・(笑)
そんなわけで再放送を見るのみで感想を書いては見たのですが、どうも何かピッタリとしない。
父の唯一見るドラマが大河・・最終日と重なってしまったのも不思議ですが・・一晩寝て考え直してみるとある事に気がつきました。
黛りんたろうさんの狙おうとしていた部分、もっとも不評な部分である「夢の国、新しき国」黄金色に輝く屏風の意味するところは、下手をすると陳腐になりそうなギリギリの所で我々現代人に生死感・・・浄土信仰の様な思想を本当は伝えたかったのでは?と思い当たったのです。
人として生れ死に行く先は皆同じ・・なのに浄土へ楽々と行けるお人と120年の長きを彷徨う怨霊として生きるしかない魂があるとしたら、その境界は一体何処なんだろう。
義経さんの描かれ方は「純粋、愚直なまでの真直ぐさ・・」だった。もどかしくヤキモキしながら「もっと賢い生き方が在るよ」画面に向って何度となく吠えても見た。
現代の物差からすると、けっして利口な生き方では無い。
が、昨日義経さんの最期を見ていて持仏堂から天突き抜けるような真直ぐな光りの束と共にあの白い天馬が駆け登る、ちょいと呆気にとられるCG処理・・・(俄には理解できなかったが)何回も咀嚼して考えてみたら、黛さんの人柄を重ね合せ思うと、あ、これは誰もが心深くには思うことでも気恥ずかしくて口には出さない「魂の浄化」を描きたかったのでは?とそう気がついたのだ。
複雑な現代に於いて人の多様な心は口で何と上手に取り繕うとも本当に浄化できる魂の存在というのは、その持ち主の心根、根幹にしか宿らない。そうした意味で言えば同じ勇猛果敢な平知盛が死して怨霊となる事で執着地獄の怨みを表現し、生き方の下手な義経さんが「夢の都・・新しき国<言い換えれば西方浄土」を心に描き誰をも怨まず死にゆく覚悟は悟りなのだ。
導きの光りとして天馬駆け登る映像を我々に見せてくれたあの唐突なイメージこそ義経さんを企画した時から監督の脳裏に在ったメインテーマなのだろう。
伝えたかったのは運命には勝つも負けもない!安らぎは悟りのみ!。「魂の救済は己自身の中」といった意味で考えるとあの持仏堂の神々しい光はとても多くを示唆しているように思えた。
無慈悲、理不尽な死を迎えてしまう幼子も多い現代、あの天に向って駆け登る天馬のような光りが奪われた無垢な命の代償として浄土からのお迎えの印としたら・・・これは救われるし信じたい。
安易な表現・・に過ぎる?と一度は思ってみた昨夜だが一晩寝て、私の知らない父の沢山なエピソードを聞く事で知り得た人間の真の仏性とは・・・生れ落ちた時から自然に備わるものの様な気がしてきた。すると義経さんと弁慶、主従が口ぐちに求めた「新しき国、夢の国」も彼等に自然に備わる仏性・・そう考えれば、その夢の国で再び逢うことは可能であり誰もが心掛ければ必ず行ける浄土なのだから義経郎党が脳裏に浄土を思い描いていれば嬉々として死んでゆくのも頷ける。
続きを読む…