暮らす事を大事にする池波エッセイから
この本は20年も前にだされた池波正太郎さんのエッセイです。挿絵もご本人が書かれている貴重な文庫です。
ポトフが煮える間、ちょっとページを繰りながら良き時代を思い起こしました。
胸の苦しくなるような事件ばかりでブログに何を書くべきか言葉を失いながらすべり落ちた良き時代を思い返したいのです。
食べるものの種類の少ない大正、昭和初期、池波少年は貧しい暮らしの中からも季節感たっぷりな味をおばあさんや母親から頂いて育っています。
祖母が包丁で剥いて食べさせてくれる茹で栗・・子供心には、茹でた栗はちっとも美味しいと思わないけれど、あ、もうじきお正月、あの旨い栗きんとんが食べられる・・・とか、マロニエの散るパリで焼きぐりの暖かい袋を受け取って食べる様子などに食いしん坊だけではない、生活を楽しんで四季を味わい尽くす心がけが尊いのでしょうか。
繰り返し巡ってくる営みの中から思い出される食材は決して贅沢などでは無いところがきもちがいい。
どんなに質素でも少年の頃、おばあさんやお母さんの工夫に満ちた季節のお惣菜を食べて育つのとコンビニの弁当では満足がちがうのです。
どうして殺伐としてしまったのでしょう、この母親不在の現代
子を殺すお母さんが壊れるのはその親が、そしてそのお祖母さん・・・何代にもかけて自分たちの暮らしの作法を壊して来てしまった結果ではないでしょうか?
哀しくてたまりませんでした。
子供の虐めにも繋がる事ですが、親が清潔な身だしなみの躾、挨拶、良く誉める・・と言った小さい日常を疎かにしない暮らし方を続けていれば、根幹は育ちます。みそ汁と湯気の立つ玉子掛けご飯のおいしさを小さい時に教えてあげてほしい。
上手に出来ない子にはお母さん、お祖母さんの価値観である体内時計を不器用な子の時間に合わせるくらいの忍耐がほしいものです。
生活者としてのたしなみに手抜きがあってはならないのです。それが心のバランスを保つ最上の教育だとおもうのです。
学校へ文句を言う前の小学校へあがる前の躾です。個々の季節のご飯、だいじにする日本女性はお祖母さんのお母さんの又お祖母さんから永々とつづく営みでしょう。
味と映画の歳時記 (1982年)