2004/8/12 木曜日

小さすぎる夢

Filed under: 未分類 — patra @ 1:55:52

ブルーモルフェという蝶は非常に珍しく採取するのが困難なんだそうです。
その蝶を脳腫瘍の少年が死ぬ前に採取したいと有名な昆虫博士を訊ねコスタリカへ連れて行って!と懇願すると少年の熱意に負けた博士が季節はずれの山奥へ少年を連れてゆくお話が映画になっていますね。そのお話は実話で凄いのは突然現われた一羽の蝶を自力で捕まえることが出来た!という事より、なんとその死にそうだった少年が歩けて、腫瘍も消え、今も元気に昆虫の採集に励んでいるって事・・・私も見たTVを息子も見たらしく「凄いよね〜好きな事や夢を一生懸命追えば病気も消えちゃうんだからさ、君もボヤっとしてないで何か夢に向かってみたら」と説教された。この夏のうちあげられたトド状態を見るに見兼ねたのでしょうか。無礼な、私だって一生の仕事、いや勉強ぐらいあるんだわよ、と内心は反発しながらもさりげなく「確かに前向きに生きなくちゃ〜ダメってことよねぇ、ところで聞いてなかったけど君の夢って何だったの?」すると「もう叶っちゃったんだよね」と恥ずかしそうに言うので「ん?かわいいお嫁さんがきた事?だ」とさらに突っ込むと、首をふり「ずっと昔だけどさ、あまりに小さい夢だったのかね、すぐ叶っちゃった。」はっきりしない。お嫁さんじゃない夢、一体?なに、なにとしつこい追求に言いにくいそうに照れて・・・・

「25年前だけどさ、自動車電話とカーナビ!」それはきみ、物欲、夢ってもんじゃないだろうが?二の句がつげず顔を見あって吹き出した。


2004/8/11 水曜日

誤算。

Filed under: 仕事 — patra @ 3:39:44

徹夜が続いたので早めにベッドに入って眠っていたら妙な胸騒ぎで目が覚めた。何か不安な感じ、こんなことは良くあるので一先ず息子に内線すると「別に・・・あ、そう言えばテラスのコニファーが、フミちゃんの旅行中、替わりに水をあげた翌日に突然枯れちゃった」とボソッと一言。朝5時の水やり・・・これが失敗の元だった。でもこれは完全に私のミス。パリでは夕方の5時過ぎに水やりをするそうだが、私が早朝のほうが良いのでは?と正しく無い情報を伝えてしまったのだ。日中の温度で鉢の水分が熱湯になってしまうので厳禁だ、と花工房に載っていてたまげた。
どうりで家の2階のコニファーが最近、枯れはじめたわけだ。しかも我が家の品種ゴールデンクレストが一番育ち難い問題児なんだ、と知って更に驚いた。植木屋さんの言葉を鵜のみにした罰。プロだから、といって闇雲に信頼もできないってことか。
自分に置き換えて考えてみた。

こんな小さい事が胸騒ぎ?と漫然とTVを見てたら極秘で進行していたある企画関係者がこちらの油断と遠慮と縁がなかった為か、「トンビに油揚をさらわれるように」一瞬にして手から消えていた。「縁」とは全幅の「信頼」なんだけど、一方通行では成り立たない、自分に勇気が欠けていたのと徳がなかった、と深く反省した夜。
躊躇するようでは物事はうまくいかない・・・このところ仕事の勘は怖いほど適中するのに優柔不断が仇となるのが困るところ。


2004/8/10 火曜日

高原の地ビールと麦わら帽

Filed under: 家族 — patra @ 13:05:55

昨日、姉が八ヶ岳から麦わら帽子を母に地ビールを父に届けてくれたのです。ちゃんと私用の緑の麦わらもありました。サンキュー。水やりの時に日焼けしないようにしたいの、と前に頼んでおいたのです。「ちょこっとテラスに出るだけでしょう、バッカみたい」と笑われたのですが覚えてくれていたんですね。

「急がないと夏,終わちゃうから.はい.」と。
この前霧ヶ峰...と書いた姉夫婦の別荘は八ヶ岳の間違いでした。たはっ。何しろ一度も行ったことがないのでさっぱりですが八ヶ岳の果物、はずれが多かったので我が家ならいざ知れずよそ様へ贈るとなると心配だけど、いくら姉妹でも失礼だしなぁーと密かに思っていたら母、あっさりと去年、姉に「あんまり美味しくなかった」と言ってしまったらしい。それで今度の桃は自信あり...と電話をかけてくれたのね。
お礼を言う間もなく玄関からあがらずに帰っていきましたけど「これからどじょうやへ行くのよ〜」と元気な声だけが余韻となって残るのみ。
この別荘へここ何年も父を引っ張りだそうと努力した姉夫婦ですが頑として腰を上げない父。一体この明治男は何を考えておいでなのか暑い夜にしっかりと布団を掛けてお休みだし。
父が部屋から一歩も出ないのでついでに母もお出かけを遠慮がち、私はほぼ十年もこの老人たちから自由にならずにいるのです。
「一本味見するね」と父の飲まない地ビールやけ飲みしました。


若者からメール

Filed under: 友人 — patra @ 1:10:21

『長崎の原爆が投下されたのと同じ日に福井の原発で事故があり、命を落とされた人がいるというのは何だか皮肉な話ですよね。
ご存知かもしれませんが、長崎に原爆が落とされたのは、その日第一目標だった北九州の小倉上空が曇っていたかららしいです。
小倉はうちから近いところなんですが、小倉出身の先生が戦後、汽車の中で長崎出身の人と出会ったときにものすごく怨めしい目で原爆の歌をじっと歌われたという話をしてくれたことがあって、その話がまぶたの裏に焼きついているような感じで今でもそのとき受けた強烈な悲しみのような恐れのような不思議な印象が残っています。』

こんなメールをyoshi君からいただきました。
原爆の日を忘れたくない思いにしては私の9日の表現は稚拙でしたね。
書き手の不味さがもろに出てしまいます、推敲なしの乱暴な更新も反省。悪い癖のサービス精神だけ旺盛でも実力が伴わないからです。座って書く、という環境がまだ整っていないのです。事務所の2階へは仕事以外に面倒で行きたくないし、このままどんどん横着になるとしたら、もうじきりっぱに猫になれます。
 
もう一通ご紹介!

『最近こんな本を手にとりました。
「ナ・バ・テア」森博嗣  著
初めて読む作家さんですが、表紙のこの言葉に
ひかれました。

僕は、
空で
生きているわけではない。
空の底に沈んでいる。

ここで生きているんだ。』

誰からか、お分かりですね!わたしも空の底から空の高さを知るひとり。


2004/8/9 月曜日

1945年8月9日11時02分

Filed under: 時代 — patra @ 3:59:37

長崎に原爆が落ちた日・・・広島からたった3日後だ。そしてついに15日の終戦を迎えることになる。「原爆の日の写真」で有名な畑山庸介氏のおにぎりを持った防空頭巾の坊やの眼差しも忘れられない。

その前年、私は2歳、1944年3月10日に東京、大空襲、浅草を焼けだされて流転の末、日光の山奥へ疎開をしていた。
東京人は伝手がないと田舎へ疎開もままならず、あらゆる縁故をたどって家族を疎開させたのだ。選り好みなどできる状況ではなかった。
きれいな空気、緑、豊富な食料、若い私の両親はこの日光の陽ざしを楽しんだ。戦争の実感が彼等にはまだ遠かったのだろう。
ところが想像以上に日光の冬は恐ろしい厳しさだった。とても東京っ子の身体がもたない、意気地なく逆戻り、そして住宅公団の都営住宅が当たり船橋に落ち着いて半年目の夏を海辺で迎えていた。曲がりなりにも1軒家だ。私は転んでばかりいる発育不良の3歳になっていた。
お握りの坊やと丁度おなじ年令に戦争が終わったのだ。

我が家の戦争は終戦から始まった。なぜならその年の秋、母が不注意から禁止されていた電気コンロを使い火事を出してしまったのだ。
1945年10月2日午後4時過ぎ・・・に本当に裸一貫になった父母の奮闘がはじまった。
意外にも、民主化に目覚めた警察は非常に丁寧で母の不注意も一切のお咎めなしで無罪放免だった。それは敗戦のショックで国中が「みょ〜な連帯感」に包まれていた時代の賜物だったのか。一晩留められた取り調べにも、憲兵から警察官に名前が変わっただけ、それ以上の気配りで同一人物か?と疑うほどの対応だった・・・と母は未だに不思議がる。

私は、泥の水田に落ちた馬を畦道から男達が必死で助け起こそうとしていた姿を鮮明に覚えている。同じ敗戦の夏だった。


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