2009/3/22 日曜日

野菜だけ焼そば

Filed under: 人物,料理,日々雑感 — patra @ 0:00:00

カロリ−控えめ野菜焼そば茄子と椎茸とタマネギとモヤシとニラ

お昼は豚汁の残りでカレー、コンニャクも入って、でも プライムカレーでカロリー控えめ。

2食目の夕食は野菜だけ焼そば・・・茄子3個タマネギ半分椎茸1パックモヤシ1袋ニラを中華麺1つと蒸し焼きに・・・油はフライパンに気持ちウッスラと敷くだけ、野菜も麺も藻塩も中華スープの素も全部いっしょに重ねて日本酒をかけ回し、きっちり蓋して蒸すだけ。

色がグレイッシュなのは茄子の色です。野菜から出るおいしい汁で麺もふっくら柔らか。塩と胡椒にオイスターソースで味を調えできあがり。

マトウ鯛の味噌漬けも半分こ。モズクとビール。これでもか、というくらい 低カロリー、でも『黒部の太陽』の頃はもうお腹が空いちゃってグっと我慢の子でした。

予想以上に良いドラマ。役者がそれぞれいい味をだしてますし香取君が凄く巧くなっていたし風吹さんもあの時代の良いかんじのお母さんが自然体で素敵です。2回目も楽しみです。


2009/3/21 土曜日

日がな裁縫・・・

Filed under: お洒落,日々雑感 タグ: — patra @ 2:18:51

金曜は看護師さんがお休みなので寝坊、イチローや日本チームの活躍を見忘れました。見てないときの方が成績が良いし・・・

ヘルパーさんに私の身長から基本体重を割り出してもらったら、あら嬉しい全然余裕です。

新調できないなんてつくづく貧乏だわ!と愚痴りながら春用の洋服を探してみました。着膨れていると太ってみえるので薄着にしなくちゃね。入院中チェストを二つ捨ててもらったので中身がどこにあるか自分ではサッパリ解らなくなってましたから。

記憶を頼りに2階の納戸から降ろしてもらった中に古いイッセイ三宅の麻のスカートが ありました。色も長さもロングで好きなスカートですが残念、いかんせんウエストが細すぎ。

そうだ、ゴムを入れましょう!と閃きキッチリと縫ってあるウエスト部分を丁寧にほどき別布で裏打ちしゴムを入れて再生してみました。午後から夜までかかってチクチクと手縫い。

最近良くスカートをはくのは車椅子だと何かと脱ぎ着に便利だからですが、温度によってスパッツや靴下を何枚も重ねたりする 時、いちいち脱がなくてもすむギャザースカートはとても便利。入院中もリハビリに邪魔になる長いパジャマのズボンの裾を切って七分丈にし、切った先っぽでポシェットを作ったりしてました。お裁縫してる時はきもちが落ち着いて好き、女のじかん堪能なのです。

ジッパーの部分にウエストにゴムを通すため裏打ちした小花の布でポケットを作りました。

歳とるとどこかしらにポッケが必要になるのよ、ティッシュやのど飴なんか入れたまま洗濯しなければ便利な老人御用達 ポッケを今のうちから用意周到な自分にぐふっと笑う。

「ここにポケットがあれば・・・」母の口癖から学んだ老人学が活きて来る日も近いでしょう。


2009/3/20 金曜日

叱られた

Filed under: 料理 — patra @ 1:09:12

整形の先生は私が食いしん坊なのを心配し「いちださん、食事は2食でいいですよ。今はリハビリもしてないし太ったら脚に負担がかかってそれこそ大変だから・・・」

お子様のお茶碗に軽くよそったご飯は1日1回だけという私は滅多に2食も食べないのに。野菜を沢山採りますがどうもタンパク質も多いらしい。二種類のたとえば肉と玉子、豆腐とお魚といった蛋白質をそれぞれ50グラムで良いらしいのだ。50グラムなんて無いに等しいけど。「ビールなんてダメ、チーズも?量が・・」と頭を傾げられた。料理写真はほとんど野菜料理で1400カロリー厳守してるんだけど。

牛乳よりカルシュウムが多く脂肪の少ないミモレットが好みの私だが「カロリーが高いからチリメンジャコなんかにしてね。海藻も良いしコンニャクならいくら食べてもいいから・・・」と帰られました。

先生の言われる食事は普段のご飯。しかも私はステーキなんか食べた日はその1食だけにして調節してるつもりなんだけど・・・ショック。

夕方、来てくれたヘルパーさんに「私太ってる?」と思わず訊ねると「いいえ、肩なんか痩せましたよ。お母さんとちがい全然食べていないからそれ以上制限したらダメ」だそうです。42キロの昔は痩せ過ぎだと思うのですけどどうしても50キロを切れません。ビールのせいだとは解っているけど350mlはご飯2杯分。ご飯を止め糖質は根菜類で取ってもビールは止めたくないな〜

質素ご飯コンニャクときんぴら野菜とん汁


2009/3/19 木曜日

台所の鍵が不具合になって

Filed under: 料理,日々雑感 — patra @ 1:22:54

亡父の好物の海老フライ桜道を見ながらビール依存?

ヘルパ−さん達に台所の鍵を一つ渡してあるのですが遂に一昨日から鍵がかからなくなってしまいました。

中からも硬くて回りません。裏の工事のためじゃないかと話合い早速抗議しました。どんな工事をしてるのかも見えないのも不安。つぃでに工事進行表と工事の場所の見取り図も請求しました。

小さい薄い見えないような鉛筆で「ご迷惑おかけしてます」と書かれた名刺が添えられてポストに入ってます。最近の人はどうしてこんなに消えいりそうな小さい字を書くのか不思議。昔、息子も字が小さかったのをビシビシ言って直させたのだが・・・

図面を見ると一応こちら側の敷地にこれ以上響かないような工夫も微かにしてあります。ふむふむ。

午後にサッシ屋さんと共にドアを見にきてくれた工事監督は名刺の字のように大人しすぎるような人。最近の現場は昔とは様変わりして女性の仕事師も居るからでしょうか一応皆さん建築現場に不似合いな程、穏やか。

怒ってるつもりの私、一人拍子抜け。その時桜の話が出て,良い時期を見て移動する事も考えているとの事。銀杏と柿と桜が近過ぎて根の成分が銀杏に吸い取られているのでは?と私と同じ意見だった。

木を残す方向で皆さん動いてくれているようで30年前に木を残してくれた社長さんはもう居ないのに受け継がれているものが同じであるとしたら これは嬉しい。泰山木さえ切らなかったら拍手だったのに。

鍵は我が家の既存のゆがみもひびいているらしく工事のせいとばかりは言えないらしい。怒りの矛先が鈍るも江戸っ子はいつも口だけ威勢がいいからこまっちゃう。


2009/3/18 水曜日

私の小さい桜の話

Filed under: エッセイ,時代 — patra @ 2:25:59

息子たちの帰国で静になった我が家、用心のために夕方から全ての鍵をかけ門灯をつけてまわる。1階の階段下から2階の小窓を見上げると桜が私を覗くように咲いているのが見える。枝ぶりの見窄らしく成ってしまった延命の桜だ。「今年も誕生日前から咲いてくれてありがとう」そう声をかけ、そうだ今夜は佐藤良二のさくら道がドラマ でやる日だな!と思う。

冷凍庫の整理がてら早めに夕飯を済ませ裏の敷地に残してもらった桜のためにもドラマを見ました。バスの運転手の佐藤さんが桜街道を作りあげようと努力しているニュースを知った頃、私は息子の育児の真っ最中だった。木が大好きだった私はその頃の経堂の陋屋が木に囲まれているのが何より気に入り住んでいた。

実家だった、今現在は私の所有する此処は昭和26年から父が住んでいたのだが元は江戸時代から続く味噌問屋さんの地所だった所を安く購入したのだ。その地主さんの屋敷は重い瓦屋根に潰されそうな平屋で陰気な雰囲気だったのは鬱蒼とした大きな庭の木々のせいだった。

池もあり古井戸もありお稲荷さんの社も誰も手入れをしないせいで朽ちかけていた。時代についていけずに 没落していく様子が子供心にも強く印象に残る無惨な庭だった。どんな人が住んでいるのかもお隣なのに地主のお爺さんしか目に入らなかったが結構大人数の家族が住んでいたようだった。ある時から家に隣接したニワトリ小屋に裸電気を引き勉強部屋にする学生さんが現れて増々暗い様相を醸し始めていた庭だった。

木の好きな私はお嫁に行くまで隣の木々の雨に濡れて艶やかに蘇る様や木枯らしに丸はだかになる様を具に観察 しては木に語りかけ励まさずにはいられなかった。日がな木を眺めていたので夜中の火事も発見し2階の窓から大声で地主さんを起こしてあげたこともありました。幼少の頃からの癖だったのでしょう。大袈裟に言うと木の声が聞こえていたのかもしれない。

70年代後半になって出戻った私に隣の木々はなお鬱蒼と茂り我が家の屋根に触れんばかりに枝を伸ばしていました。既に地主さんも亡くなり終に土地は売られジャングルのような絡みあった陰気な庭が 取り壊される寸前に私は受話器を握り敷地の端っこの桜と銀杏,柿にローリエと泰山木の延命を裏の会社に直訴するため電話をしたのでした。

忍びなかった。木々が切られその土地の歴史が跡形もなく消え去るのを見過ごすなんて絶対に。ローリエ(月桂樹)は切られ泰山木は桜とともに残されました。嬉しかった。

それからです。早咲きの品種だったのでしょうか?3月のはじめには咲いてしまう桜。年に何回も見事な白い花を咲かせる泰山木。あれから30年、先日、泰山木がついに切られてしまいました。

日当りと栄養不足の桜は哀れなくらい弱っています。去年は私の誕生日には間にあいませんでした。今年は危機感からか・・・窓から覗く桜は色こそ褪せた白にちかい花を必死に咲かせてくれています。新社屋建設のために取り壊された敷地に取り残された桜と1軒だけの我が家。人間が植え育て人間が残酷に木々を切る。

ドラマの中で実生の種を桜が一杯落とすシーンに泣きました。なぜなら10年程前に裏の延命の桜,この実生の種をいっぱい降り注ぐように落としたことがあったのになぜか解らなかったからです。不出来な桜んぼ?と。無知でしたが私個人ではどうしようもないことと諦めていたのでした。企業がせめて木々を土地の歴史として残すくらいの度量が あれば・・・・虚飾の繁栄ではない真の受け継ぐべき繁栄につながりはしないか?さくら切ってはならない。

諦めなかったのが佐藤良二のさくら道、この地球上に彼のような人こそ必要だった。


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