本当は一緒に祝いたい
家族の歴史にどうしても理解不能な事があって、若し、私に悩みがあるとしたら・・・
姉が病気だと分った時、残される姪を任せて!と言ったら姉が吐き捨てるように「それはMに不幸よ」と言ったこと。
全く理解出来ない私への姉の不信に寂しい想いをしました。
今日は姪の誕生日。
家族の歴史にどうしても理解不能な事があって、若し、私に悩みがあるとしたら・・・
姉が病気だと分った時、残される姪を任せて!と言ったら姉が吐き捨てるように「それはMに不幸よ」と言ったこと。
全く理解出来ない私への姉の不信に寂しい想いをしました。
今日は姪の誕生日。
タマネギ半分、黄色パプリカ、舞茸など残った野菜をスライスしニンニクで炒め,熟したトマトと海老を加え、塩胡椒にセージ少々、ここへスープ(千代の出汁)日本酒を入れ、カッペリーニを入れて8分くらいで仕上げに香草の微塵切りをのせます。簡単で美味しいパスタ。
豆苗の炒めとホタテも、あえてパスタには入れずに一皿に・・・
デザートは柿です。
フラメンコダンサーの第一人者のアントニオ・ガデス、ピラール・ロペス日本公演のときは父も母も元旦那とも見にいったくらい家中フラメンコファンでした。
父がフラメンコギターを弾くのが趣味だったせいですが・・・
2004年7月20日に67歳でなくなっています。何と同じ年の12月29日父は92歳で追うように亡くなっています。
コジツケですが何か妙に嬉しい。
家族中で映画も舞台も見に行った思い出が懐かしいです。
冒頭のヨットに乗っているにこやかな老人がガデス・・・病に倒れ誰にも死に顔を見せなかった美意識、わかります。本当に精悍な美しい人だったから・・・
志風 恭子さんから引用させてもらいました。
『2004 年7月 20 日午後5時、マドリードのグレゴリオ・マラニョン病院でアントニオ・ガデスが胃がんのため亡くなった。享年 67 歳。故人の意思により、葬儀の類は一切行われず、遺骸は翌日荼毘にふされ違灰はキューバに送られた。
舞踊家、振付家。 1936 年アリカンテ県エルダの生まれだが、マドリード育ち。家計を助けるため幼くして働きはじめ、踊り始めたのもお金を稼ぐ手段としてだった。ピラール・ロペスに見いだされ、彼女の舞踊団で活躍。ピラールの相手役として 1960 年に初来日している。 61 年退団。後、 63 年の映画 「バルセロナ物語」でカルメン・アマジャと共演。同年、後のガデス舞踊団につながる最初のグループを結成。 1974 年、スペインを代表する詩人ガルシア・ロルカの戯曲をもとに「血の婚礼」を初演。この名作は、 81 年、巨匠カルロス・サウラ監督の手で映画となった。
1978 年、スペイン国立バレエ団結成時の芸術監督に就任。 80 年の退任後は、自らの舞踊団、アントニオ・ガデス舞踊団で世界を舞台に活躍。またサウラ監督と組み、「血の婚礼」に引き続き、「カルメン」「恋は魔術師」を撮影。 1983 年には美術国家賞、 86 年には舞踊国家賞を受賞している。
』
映画「カルメン」( 1981 年)、そして 1986 年に行われた舞踊団での来日公演で、はじめてフラメンコに触れた人も多いことだろう。かくいう私もその一人である。映画で興味をもち、劇場に観にいったのだが、その細部まで神経の行き届いた完璧な舞台に圧倒された。
一回だけのはずが、会社をさぼって当日券(前売り券は売り切れだった)に並び、 3 階席からみたステージの美しさは今も目に焼き付いている。照明、人の動き、音楽 … 。全てが完璧に計算しつくされていた。絶妙な間合いで流れるようにすすんでいく。アントニオ・ガデスの、あのストイックな容貌に、すべての感覚がとぎすまされたようなあの動きにも魅了された。オヨスの、力強く女性らしい動きにも。そして、カーテンコールでのブレリア。そのリズムがとれなかったことが、私をフラメンコにのめりこませたのだ。ガデスがいなければ今スペインにいるこの私はいない。 』ネットで検索した方の感想を記録としてコピーさせていただきました。
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