夕べの記述に.関東大震災の時、母達親子が逃げた先は清澄庭園の池、と書いたがこれは母の父親が辿りついた先、母は母親や婆やと共に,清澄庭園に辿り付く前に父親にはぐれ、逃げ惑う群衆に押され州崎の海まで歩いて来たそうです。火の粉に追われそして海に入り,母親の手から離れ波に沈みそうになった時、見ず知らずの学生さんが担いでいた柳行李を投げ捨てて母を拾い上げて肩に担いでくれたそうです。物より子の命を選んでくれた学生さん、母、5才の頃、実にありがたいことですね。
沢山の愛に包まれて生きてこられた母、もう一つ好きなエピソードを話してくれました。 清澄庭園に逃げた父親はもちろん無事で、運良く再会でき、その後何かと母をそれは可愛がったそうです。小学校に上がった頃、小さい赤ん坊の居る自分の妻を患わせないためか、毎朝.私の母の髪をお下げに結うのは父親の役目だったそうです。するとお下げは下に下がらず横に向かって編まれてしまう。そのピンと跳ねたお下げ,黙って結い直してくれるのが担任の女先生だったそうです。
長女というのは男親にとって格別な想いがあるのでしょう。私の父も姉には滅法、甘かった。
年頃になった母の色黒を心配した父親(私からは祖父)は母が出かけるときは必ず玄関から大きい声で「傘、傘をさしていきなさい」と叫んだそうです。清澄庭園に逃げる時,娘の手を離してしまった恐怖を忘れなかった男親の心なのでしょう。お寺のお坊さんだった姿しか知らない私、そのお爺ちゃんが不器用な手つきでピンと横にハネてしまうお下げを結っている様子,今でも見えるようで父性が愛しいです。
結婚後,母が電熱器の不始末から出した火事について、祖父が夫殿へ出した詫び状にも胸迫る愛情を感じます。私の父が掃除洗濯料理がまるでダメな母を離縁しなかった背景には祖父の真剣な父性に畏敬を感じてのことだったのでしょうか、母に言ったら「ダメな子ほどかわいい」とケロっと答えてましたよ。