地に落ちた話
とつぜん胃が痛くなる。神経から来る一過性のものだが、むかし度々胃を痛くしては「僕の人生は半分くらい胃のせいで人と一緒に居ても心から楽しめない」そう語り、そして胃癌で亡くなったデザイナー村田東治君の言葉を今更のように思い出す。胃が痛むなど、極楽トンボな自分には全く縁がなかったのに・・・
何で急に胃が痛く成ったかは他にも理由があるのだが・・何とも痛ましい思いをしたからだが、それは村上春樹氏が「文春」4月号に寄稿した文章にも拠る。「ある編集者の生と死」内容はここでは触れないがそこに書かれた亀裂は、尺度違いの人間から起きた悲劇だろう。「俺の想い」と「僕の解釈」の徹底した食い違いに拠る友情の不成就を、読んでいて両方が痛ましかったからだ。
村上氏が言う故安原顕編集者の手のひらを返すが如き突然の豹変は村上氏が売れ過ぎたことも大いなる原因だろう・・ベストセラー作家を誉める言動より、貶すほうがはるかに面白がられ売れるのが日本の現状だ。
こうした事はお二方だけに起ることでは無い、人間が存在する限り表現を変えて起こりうる感情だ。が、人の為に何かしてあげた当人は速効で、その事を忘れ、露も思い出さないに限る。一方して頂いた人は死ぬまでその人の恩を忘れないこと、が人として正しい策なのだが人は往々にして真逆をする、20数年前に村上氏の方から世辞にも安顕氏の名を率先して出すことがあれば、子供っぽい人だけに得意満面、手の平がえしは無かったのでは?。
村上氏の生自筆原稿流出の件に関しては驚きであるが、贔屓目に考えて、安顕氏がとてつも無くだらしが無い人間だとして引っ越し騒動などで作者への返却も原稿の存在すらも大荷物に埋もれ忘れていた!と仮定しても、又男として最晩年の経済の見通しの甘さから故意に悪企みしたとしても買い手が無ければ成立しない行為だ。残された遺族の無頓着さに加えて、古書売買の人達に「モラル」さえあれば、その生原稿が故人の所有物では無いくらい考えつくだろう。作者への打診に当然繋ぐべきものを、今の日本には間違いを侵そうとする死者の名誉を救うべく、待った!を掛ける「良心ある賢者」としての商売人(古書店主)が一人として存在しない事実の方が余ほど恐ろしい。
遺族としての心がけは遺品整理を業者任せにするのは後々悔いが残ることを胆に冥ずべきだろう。スーパエディターなどと世にもてはやされた安顕氏が生原稿の横流し・・、哀し過ぎる現実である。1周忌の遺稿集を頂いただけに後味悪く、胸も胃も痛くなったのだ。
どう生きるか?に加えて人はいかに身辺を整理して、潔く逝くかが問われているような気がした。