2009/8/30 日曜日

2回目の顛末

Filed under: エッセイ,骨折日記 タグ: — patra @ 7:35:12

退院1年目に思う・・・というエッセイを、去年夏に載せたわずか1ヶ月後に又も転んだ私は相当の罰当たりかなんかですね。
靴は不具合だったので使ってませんでしたが、つたい歩き、杖が使えるようになってました。用心のためにピックアップ歩行器を併用していたのです。

その日は凄く蒸し暑く、家に来て下さるへルパーさんは体格が良く汗かきなのでクーラーだけでは足らないだろうと自分の寝室のデロンギ乾燥機を付けてから戻る所で、僅かな引き戸のレール(5ミリ)に弱い足首が乗った瞬間によろけたのです。訪問看護士さんの目の前でした。後で聞いても何故よろけて尻餅をついたぐらいで骨折したのか解らないくらい静かにズルっと床にお尻をついたそうですが、なんせ狭い通路なので足に全体重がかかってしまうと、筋肉の障害(ミオパチー)がある私は自分を支えられないのでしょう。とっさに掴んだ植木鉢ごと倒れました。

前からお直ししないといけない廊下、去年とほぼ同じ場所ですから本当はいの一番に直すべきでしょうが母の環境を直すのが、私には先決だったのです。

運良く看護師さんの目の前で転んだので、すぐに整形の先生が順天堂に連絡をしてくださいましたが、ここが大問題です。当初は受け入れ可能だったのか、レントゲンを沢山写し診察室で見ながら、既往障害の話しなどし診断する内に部屋が5万しか空いていないとの事、まさか整形で日に5万もかけて3ヶ月入院したら破産ですから困る!と言いますと「じゃここでは看れませんので元の手術した先生に頼みなさい」とニべも無い。
おぉ、世間で噂のたらい回しの根源は部屋代も有りか?

去年、退院する時に「2度と転ばないでね、もう来てはダメ!!」と言われたばかりの逓信病院に行くのは面目無いし恥ずかしい。果たして受け入れてくださるか不安な私に順天堂の先生が連絡をしてくださる。「すぐ来なさいと言ってますよ、救急車呼びます」
「来ちゃダメって言われてたんですけど・・」「そんな事言ってませんでしたよ」と苦笑する先生。
「再起出来るかしら?」しょんぼり呟くと側で着替えを手伝ってくれていた順天堂の看護師さんが「あなた、しっかりしてるから大丈夫!」と声をかけてくれたので、すぐその気になるゲンキンな私。

救急搬送された日は若い知らない担当医でしたが「良く来ちゃダメと言われた病院へ又来ましたね!」と笑いながら止めをさされるし冷や汗で平謝りしました。

去年と違う6階へ運ばれる。この6階の担架風呂を借りていたので其の方が便利と思ったのですが早とちりでした。あの優しい7階の看護師さん達と違いなんか?言動に刺が在る感じ・・・ついて来てくれたケアマネジャーさんや看護師さんは婦長さんまで勤めたベテランなので首をかしげて、でも黙ってましたがどうも救急で運ばれる人間には邪険な対応の様な気がしますが受け入れて頂けただけでも感謝しないとですね。

入院した日は1晩中、雷が轟くように鳴っていました。真っ黒な窓に光る稲妻をみながら、いくら脳天気な私でもへこみました。万事窮すなり。

日曜だッたのにも係わらず私服で見えた去年の主治医が、ちょっと険しいお顔で入ってこられ、謝る私に「色々考えてみたんだけど、右はそのままでも単純骨折だからギブスで良いが、左は去年入れた金具を抜いて今度は骨の随に金属の棒を入れる方法しかないからそれで行きます。水曜に手術だから・・」との事で他は何も言わず帰られました。
叱られるとばかり思った私はその時はほんとに大安堵したのでした。
6階は男女混合の看護師チームと解りお願いして7階へ移動して頂く。知り合いの看護婦さん達に「舞い戻ってごめんなさい」と謝ると「好きで転んだのじゃ無いから、仕方がないわよ、がんばりましょう」と口々に励まされました。

手術の日は姉とケアマネジャーさんが来て下さり、担当医に相当に厳しい状況だと宣告されたようでベッドに泣きふすケアマネジャーさんに申し訳なくて「大丈夫だから、何とでもなるから」と励ますしか無かった。

有難い事に、以前担当だった先生は人が変わったように患者への対応が成長して素晴らしく、部屋に入る時の呼びかけから明るい表情といい去年とは雲泥の進歩だった。そのせいか私の術後の結果もすごく良かった。一度経験しているせいで、精神的にも余裕が出来たのか・・・人間って相当にタフだ。何もかも慣れる。

骨折から来る酷い貧血も姉の差し入れのビフテキのおかげでどんどん良く成り、術後すぐに始めた超音波治療のお陰で骨のつきはじめは2ヶ月もしない内に結果が出たのです。担当医も部長先生も不思議がるほど順調でした・・・セーフス効果と共に私の感謝の心が百倍くらい大きく育ったせいでしょうか。ありがとうの心が自分自身を直して行く感じ、相乗効果とでも言ったらいいでしょうか?驚くほど回復が早く、1回めの時とは大違いでした。
リハビリの先生も新しく変わって慎重で優しい先生が充分にケアして下さるので、私の方法を参考に取り入れた運動プログラムで機能回復に励めます。つまり出来ない立ち上がりはベッドの上下機能を利用し、無駄な練習はパスする等の工夫です。

問題は先生が、私にもう2度と歩いてはいけない!と宣告なさった事です。今度骨折したらもう直せないから・・・との理由です。これを受け入れるにはわが家を直すか売るかしないと解決しません。
まず退院に向かい準備にとりかかったのは10月です。
病院から大工さんに指示し、とにかく車椅子で自分の部屋に行けるように直してもらう為の打ち合わせをする。何もかも独りで決めた去年と違い、今度はケアマネジャーさんが懸命にサポートしてくれます。留守を護るヘルパーさんも去年とは大違いの親身さです。
途中、大風邪をひいて10日もリハビリを休みましたが、カーテンを引いたベッドの内側で立ってる練習だけは欠かしませんでした。もちろん内緒にです。

わが家に戻る為には道路から入り口の段差が解決できてません、ケアマネさんが、リハビリ室での歩行訓練を見に来てくれますが不安そうな表情。

「大丈夫、まだ2週間もあるんだから、もっと上手になるから」と強気な私に
「2週間しか無い・・・と思う私と未だ2週間もあると思うイチダさん!そうか、そう考えないといけないんですね」と拍手してくださいます。


アビリテーズ・ケアネットの若いお嬢さん達に狭いわが家でも対応できる車椅子を探して持ってきていただきながら大急ぎで12月暮れ前に退院したのには、わが家に起きたもう一つの事件を解決しなければならないからです。
突発的に唐突に裏のビルが解体工事に突入する知らせが入ったのです。あまりにも突然なビル解体と向こう2年間に渡る新築工事に加え、それだけならいざ知らず南側の駐車場が買収されてしまったのです。

3方向を巨大ビルに囲まれてしまい、わが家は完全に埋没します。

計画は3年も前から静かに進行していたのにわが家に知らせる義務を怠ったのです。
権利侵害を赦すわけにはいかず、主張し闘うには私しか居ないのですから、入院なぞのんびりしていられません。

考えてみると私の人生は、こうして闘いの連続なんです。休む暇なく何かしらんと闘っている。
断固たる抗議文を息子に添削してもらいつつ出しました。仰天した会社は懸命に対応してくれはじめました。

この1年は辛抱の1字でしたが、もう一つ横棒をくわえ幸せと成る字を抱ける日が来るのかは謎です。悲劇は度がすぎると喜劇でしかなくなりますね。
あきれかえってひっくりかえっる、が私の人生なのでしよう。でも何時も必ず克服できるのですが、今回ばかりは相当に気苦労でした。母の病気も考えると切りがないので無いことにしてみました。どうにでもなる!が口癖の人生がまだ暫く続く予定。


RSS feed for comments on this post.

© 1999 - 2024 Patra Ichida, All Rights Reserved.