2012/5/6 日曜日

竜巻が起きた。

Filed under: 時代 — patra @ 21:58:45

スーパムーンの日にアメリカなみの竜巻がおきて中学生男子一人死亡,家屋の損壊も甚大でした。茨城筑波方面・・・日本への追い打ちのようなダメージに悲しくなった。記録として。

家屋の損壊の惨状はとても酷く益々言葉がでません。
つらいです。


2012/5/4 金曜日

合田佐和子個展準備へ

Filed under: 友人 — patra @ 15:28:24


合田佐和子さんの個展が愈々10日から始まります。一安心。
一番迂闊だった事は飾り込みを全部自分達でやるのが貸しスペースでの鉄則を、私も佐和子さんも良く把握していなくて大慌てしました。
まったく経験が無いので「釘は2・5センチです」とギャラリーの方が言うので「え、2・5センチで60号が支えられますか?」等とパニクってしまう未熟さです・・・今迄は企画展ばかりだったので全部画廊まかせだったのです。

詳しく伺うと釘の打ち込める板は2・5センチの合板という事だったり(笑)
私は車椅子なので全く役には立たないしで佐和子さんのお仲間を彼女が駆り集めて「トンカチと釘も持参なんですって」と心細そうな佐和子さん。
でも流石にご人徳の佐和子さんの電話に椿画廊さん,社長自ら飾り込みに来てくださるというお話で「鬼に金棒!」と佐和子さんも私も叫ぶのでした。

2年がかりになってしまった個展は途中東日本大震災と原発事故、去年の11月には佐和子さんの入院と,色々と大変ではありましたが兎に角辿り着けて良かったです。
体力的に自信のなくなった佐和子さんの希望で地元鎌倉での初自力個展です。

全部新作です。独特の画風で油絵一筋で生きて来た佐和子さん。がんばりました。


2012/5/1 火曜日

紫陽花の五月

Filed under: — patra @ 16:49:12

ヴィスコンティの愛して止まなかった白い紫陽花が届いた。小さい鉢に5輪です。どこに置くか、紫陽花の鉢を膝にウロウロ・・・DSCN5544DSCN5558DSCN5573DSCN5571DSCN5575DSCN5576
来年、もし未だ元気だったら紫陽花デーと称し各部屋に白い紫陽花を飾りたいものだ・・・今年は白が一つしかお花屋さんに無かったので仕方無い。

苦労の連続だった自分にご褒美の日でした。
自分にご褒美って、けっこうきます。ニヤついた私が鏡の中に(笑)


2012/4/25 水曜日

京都交通事故のトラウマ

Filed under: 家族 — patra @ 0:34:44

京都での交通事故のニュースから,思い出すのも辛い36年前の息子の事故が蘇る。あのときの辛さは表現できないほどだった。
下校途中青信号で横断歩道を渡り始めた息子へ、渋滞で交差点の真ん中に止まってしまっていたトラックを交通整理に出ていた婦警が息子も信号も無視して、手でトラックに動くように指示をだしたのだ。
信号の青で歩き始めた息子は轢かれた。
対向車両が一斉にクラクションを鳴らしトラックと婦警が気がついたので命は落とさなかったが骨折15ヶ所全治2年の大事故だった。
あきらかに婦警のミスだったが、当時の世相は警察を糾弾できるような社会状況になかった。父も元夫も無力に押し黙って権力に巻かれていた。
私は泣き喚いて弁護士に抗議したが無駄だった。

しかも元夫は裁判に必要な事故から退院までの私が付けていた闘病日記をタクシーの中に起き忘れ紛失するというだらしなさだった。
家族の団結もバラバラになってしまうほど辛い思い出で良く立ち直れたものだとおもう。
立ち直れたのは当時10才だった息子自身の生きるエネルギー生命力のお陰だった。

今度の京都のニュースを見ても、なんの落ち度もない子供達や妊娠中の若いお母さんやお腹の子も命を落としてしまった。家族の心中を思うと言葉がでないのだ。

加害者の少年は未成年ということだが今迄も無免許運転を繰り返していたらしい。恐ろしい問題意識の欠如である。
そこで急に思い出したのだが同じ救急救命センターに無免許で運転し衝突して入院した少年が居た。確か14歳だった。母子家庭の中学生だった。
普通の子だった。
少年は誰も殺めず自分が骨折したわけだが、その事故を自分でどう反省し乗り越えたのだろう?
しかし、今度の京都の少年は・・・代償があまりにも大きい
反省などで赦されぬほどの惨事をひきおこしたわけで・・・被害者の気持ちからは万死に値する。
息子を轢いたトラック運転手も裁判になった。
服役したかどうかわ裁判に出なかったので思い出せないが・・・運送会社が保険をかけていなかったのも悲劇だった。その運転手は今迄優秀だったので全車両に保険をかけなかった会社の手落ちでもある。悲劇とは重なってやってくる。

中学か高校生の頃か?息子はある日「もう運転手を恨んではいないよ、この事故で得るものも大きかったから、機会があればそう伝えたい」と言ったのだ。

事故後、入院中に、背中に赤ん坊を背負った女性が訪ねてきて泣いた。運転手の奥さんだった。でも赦せないで押し黙っている私の側で今は亡き母が「お互いに不幸でしたね」と声をかけたのだ。立派だった。

お陰さまで不自由になっても息子も生きている。亡くなってしまったのとは意味が違う・・・あの熱い鉛を飲み込むような辛い思いをどう癒せばよかったのか・・・仕事をして!と息子が言い、それに答えて必死に前だけみて生きていたようにおもう。

痛過ぎる経験だった。

封印していた痛みが、京都の交通事故で蘇ったのだ。被害者の家族を思うと深く深く心が沈む。
交通事故という人災を憎む。

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2012/4/24 火曜日

奇蹟のであい3

Filed under: 友人,日々雑感 — patra @ 23:16:14

可愛いお土産とともに現れたまゆむさんは若く非常に新鮮な印象の細い少女でした。合田佐和子展のお手伝いをしてくださるので打ち合わせにお招きしたのでした。
DSCN5477DSCN5480DSCN5485DSCN5483DSCN5482隠居、ばかの一つ覚えのようにローストビーフと野菜のディナ−でしたが、彼女の持って来て下さった愛情溢れる手作りのお土産に胸が一杯でした。これ、全部彼女が作ったり描いたものです。
信じられないくらい完成度が高かったです。基本のデッサン力がしっかりしているのが何より猫達を生き生きさせていました。
まゆむさんの語るお母さんの思い出話は驚きの連続でした。どこでどのように私に遭遇したのかは、もう亡くなっているので確かめようが無いのですが、和歌山でお母さんの経営していた美容院の名前は「パトラ」だったのだそうです。二人共思わず天を仰ぎました。何かの細い縁の糸が繋がったおもいがしたからです。お母さんは幼い彼女に度々私の話をしたそうです。
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こんな偶然から私の懸念していた利発で若く優秀な人材が「アッ」というまに確保できたのです。
翌日,早速、佐和子さんにも報告しました。
皆さんは奇蹟を信じますか?私はなんどもこうした奇蹟で今迄助けられています。
世間的には全く無名の私が唯一まゆむさんのお母さんと接点があったとしたら美容院に置く雑誌「ヘア・モード」に記事を書いていた事、ファッシヨンショーのスタイリングをした時、着替えのお手伝いを美容学校の生徒さんにお願いした事くらいです。どれも30数年も前のことなのです。

でもこうして最も困っている時に天国の糸はまゆみむさんを通じ私に降りてきてくれたわけですが、これは幼くして離別したお母さんがどれだけまゆむさんを案じながら亡くなったか!という事です。
私達二人は見えない糸の暖かさにぼーっとしながらも「美味しいね」と今をしっかりと感じながら味わうのでした。
ありがとう、ありがとう・・・をたくさん感じながら。


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