福田恒存と父
もうご存じの方も少ないだろうな〜と思う。「こうそん」ではなくツネアリと読むのが正式のお名前だが、昨日、産経新聞の「正論」福田恒存(現代人の弱気を見抜く視点)を読んでいたら没後10年に成られたと知って感慨深い。わが老父の中学の同級生だからである、無名な市井の人に限って言うと、疲れない父の人生とは、なんと長生きだろうと思う。
正論で西尾幹二氏が氏の没後十年記念の講演に寄せてお書きになっている。
「福田恒存氏にはその値打にふさわしい光が当てられていない、と山田太一氏が仰言ったので、私はこれを承けて、日本人は福田恒存の仕事をあえて忘れようとしているのではないか、とこの国民に、都合の悪い事を避ける集団忘却の癖があることをまず問題にした」と書きだしておられる。
内容にはふれないけれど、その内に月曜に限り載るかもしれないのでチェックしてみて欲しい。
昔、友人から「君のところは何の新聞?」と聞かれて「産経新聞よ」と答えたら非常にバカにされ「え?産経って牛乳屋さんとか八百屋さんが読むたぐいの新聞でしょう?」と言われて却って驚いた。
両親がある時代から朝日新聞を止め、多分中立であろう・・・という観点から言論にかたよりのない普通の庶民が読む新聞に切り替えたのだ。
ついでに日本経済新聞も止めた。
すでに経済の仕組みを学んでも「埒」が開かないと知ったからではあるが、文化人と称すところの偏狭な言論に偏りする新聞を嫌い読まなくなったのである。
そこで福田恒存さんだが、山田太一氏、西尾氏の共通の感想である、「氏の何か深々としたところで諦めていて、寛大さの中に冷たさが在り、言論のむなしさを知っていて、それでもなおかつ諦めないで戦った処が余人にない偉いところ、もし人生に意味がないなら意味を作ればいい、と立ち上がったところが日本人的じゃない・・」と書かれている。
その浮き彫りにされる氏の性格の類型が、わが父に酷似している。もちろん父は無名だからその業績の質たるや雲泥の差ではあるが、同じ時代感、同じ教師に学んだ人間の持つニヒルさや価値観が妙に一致するようなのである。
いち早く40年代にマスコミの胡散臭さを、見抜いていた父の出来る抵抗は、儲けに走らない、読む新聞を代える事!ぐらいが精々だったが、こんな小市民的批判精神の父を小気味良いと感じるには、相当の時間がかかった。
続きを読む…