2006/4/22 土曜日

五島列島の干物

Filed under: 家族,料理 — patra @ 0:39:58

甘鯛の干物
通販はどうも苦手なんだけど、フミちゃんが楽なように干物や明太子を沢山取り寄せました。
3階のキッチンに素敵な魚用グリルを持っているので、仕事や打ち合わせの合間に焼くように・・ここのところ彼等は忙しく一緒にご飯ができないので適当に差し入れなどしてヘルプしてます。

さて、本日出かけた留守に最も焼き方の難しい甘鯛、身崩れし易い干物を1枚テストで焼きました。前に教わったようにアルミ箔を敷いて下のIHグリルで..
皮がひっついてしまった〜ウロコがついたままアルミ箔にぺッタっと。

いつもどうも上手に焼けません。今度は冷凍のままトライしてみましょ。
焼き方の仕様書では無く、皮から焼いて、身を焼くほうが良いのかもしれないな〜と苦戦する手の不器用な私。

干物でご飯

鯖、鰺、は美味しい。

・・・甘鯛はどうでも良いかも。


2006/4/21 金曜日

歩み寄る心・・

Filed under: 家族,日々雑感 — patra @ 0:03:43

「いや、母さんは無邪気なだけだよ、悪気はないんだから、そう一々突っかかるなよ」今となると叱った俺のほうが堪忍が不足だった・・
そう言っているような父の写真。生きていたら今日が94才の誕生日。

確かにそうかも知れない。善く考えてみたら怒る感情は自分の都合なのだ。
自由闊達に、行けるならばどこへでも好きにゆく自由は母にある・・仮に行き先も言わずに外出して、不幸にも怪我やトラブルに遇ったとしても、それは母の運命である。すぐに助けに飛び出して行けない我が身自身を忌々しく想っても別に母に罪があるわけじゃないのだ。

伯父友松円諦老師の説くCD版「般若心経」を何度も繰り返し聴きくうち、心の修行を一言でいうなら「修行には何も難しい事は一つも無い、夫は妻を拝み妻は夫を拝む、子は母を拝み母は子を拝む、上司は部下を拝み部下は上司を拝む・・お互いを思い遣る心こそが重要だった・・・
「共同生活なんだから、心配している者の身にもなってよ!!」そう激しく毒吐いた言葉の中に「自分」の事しか考えていない自分がいる。
みっともない、とか恥ずかしいとか
「無事に戻って良かった、でも心配だからちゃんと伝えてね」
そう言える私だったら・・・少しも母は隠し事せずに堂々と行き先を言う筈だ。結局すべての理には結果と因果の法則があるんだな。
晩年、ほんとに仏のように穏やかになった父は、長い時間をかけて己の非を悟ることで母を理解できたのだろう。

「良く叱られたけど、お前は謝るから良い、そう父さんに言われたのよ、だから今度だけ許してね」ええ、ええ許しますともさ。そしてこちらこそ。


2006/4/20 木曜日

昔のガラス器・・

Filed under: 日々雑感 — patra @ 0:01:32

ガラス器
幕末か明治のガラス器・・
40年以上も前に青山の骨董通りで買って、いまだに壊れずにあります。

モノがたまりすぎても処分できないでいるガラス器です。

掃除をしてて又腰を痛めました。もうっ・・・


2006/4/19 水曜日

ヴァンパイア・・父親業になる

Filed under: 家族,日々雑感 — patra @ 8:36:49

大吸血時代  デイヴィッド・ソズノウスキ著、金原瑞人、大谷真弓訳・求龍堂・1890円

きのうは母に振り回されて1日不愉快だった。
考えてみれば大昔からよく嘘をついて映画をみに行ってしまうので父が激怒していたっけ・・

母に何故黙って行くの?と聞くと「反対されるのが否だから」と答えます。叱られるのが否で嘘をつくらしい。子供時代からの哀しい習性?
(幼児に厳しく叱ると嘘つくようになりますのでしてはいけません)

でも来年には90になろう老人が家の者に行き先を言わず、帰る時間を言わずに出かけたとは一緒に行った親戚の叔母達さえ寝耳に水だったろう。病院へ行ったとばかり信じていた私だ。

こんな不良婆さんは言う事を聞かないので放って置いたら、豆大福とお豆腐に小豆の餡を載せて無気味な食事をしてました。ぎゃ!

「小豆とお豆腐が良いんですってよ〜簡単だし」ケロっとしてます。

どうりでこのごろお豆腐のパックがすぐ行方不明だったわけだ。

一億人が健康指向で変な嗜好になるのも時間の問題かしら・・・

もう負けていられない、この変な生命力強固な生き物と共存するには対策がもっともっと必要だな?
今、ニューヨークで大評判のヴァンパイアが父親になる話大吸血時代

でユーモア力をつけなきゃ・・真面目な私はとってもやっていけませぬ。

え、どっちが吸血鬼?それは聞かないで。イスズのように可愛く甘え上手ではない老人のお守はたいへんなのよね、どっちにしても。
世界中がヴァンパイア時代になる近未来、彼等は捕獲者から消費者へ・・と変貌した。生きた人間の血を吸えるのは金持ちだけで、庶民はスーパでパック入りの人工血液を購入するしかない。

食育とか・・老、老介護社会に何か通じるように想うのは私だけ?


2006/4/18 火曜日

ぼくセザール10歳半1メートル39センチ

Filed under: 感想 — patra @ 1:16:21

ぼくセザール10歳

夕食まで時間があったのでム−ビ−チャンネルで「ぼくセザール10歳半1M39cm」・・・と言う長いタイトルのフランス映画を観る。

この映画の主人公、パリに暮らす少年、10歳半、お菓子好きのポッチャリしたセザールの眼線を通して描かれる大人達は、決して優等生な大人じゃないところがリアルで好もしい。
セザールとクラスメートのリサとモルガンのちょっとした冒険のお話だが、しっかりと大人達を観察している様子が面白く、終には真剣に仲良く生きる事について深く考えさせられました。

セザールの父親は次ぎの出産を控えた妻を労る一方仕事が思わしく無い悩みを抱えての苛立ちからセザールの話を聞こうとしない。
セザールが憧れる美しい同級生、サラには、お銚子者で何事にも全力投球するのだが、結果は浮きまくるパパが居る。恋人を新しい母役としてサラに認めさせようと必死なパパ。セザールの恋敵でもあるモルガンは堂々として完璧な男の子なのに、実は雷が怖い。看護士の母に育てられ生まれてからまだ1度も父親と逢っていない・・その故か嵐の中、独りで留守番をするのが怖い弱点をセザールとサラの前に暴露してしまう。各々の悩みを知って仲良くなる3人。この3人組みが一致協力しロンドンまでモルガンの父親を探すべく旅にでるのだが、記者をしている事と名前だけしか知らない父親探しの3日間の旅。

ロンドンで出会う人々の設定が実に現代世相を反映していて興味深かった。食い詰めた同性同名の中年男、軟弱そうで暴力的な青年。
一見アウトローに見える実は親切なパンクおばさん・・・彼女の描き方の中に大切な「人」としての愛の基本が表現されていてうれしい。モルガンのお父さんの描き方にも救いがある。勿論再婚し子も3人も居るのだが、その家族の見せ方に説得力があるせいだろう。ラストのセザールの台詞の中に、映画で表現したかった全ての想いが凝縮されている粋な仕掛けになっている。タイトルもその台詞に因るものだった。

我々大人は、つい、子供時代に自分がどんな風に親を観察していたかを忘れ、自分達こそ正しいオトナのつもり・・・と図々しくも錯覚してしまう。けれど親になる動機はけっこう不純、つい気紛れな恋などから子を成し大慌てで親に成って行く人だってある。それ相当の自覚や覚悟が有って親になる人の数よりも、知らず知らず親に育ってしまった人・・・そんな無自覚な一人である私もセザールのような子供に因って育てられた親の一人かな。

既に充分に大人である息子を未だに子扱いし「それって、まるで悪いお母さんの典型みたいじゃないか、最近の君、お婆ちゃんそっくりになって来てるよ」と抗議されてグサッと言葉が胸に刺さり赤面したばかり。

世界中の子供達が良いオトナに育つには元子供だった筈の親が、記憶を呼び覚まし、何度も耳傾けて子供達の嫌った大人と自分自身が出会う訓練をすべきかも・・・同じ轍を践まないようにしなきゃ人として進歩する・・大事な意味がなくなってしまうもの。
とても楽しい、好きな映画でした。


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