萩原朔美さんの本
スタイリストの中村のんさんと親友の多田えつ子さんが会食した時に偶然、のんの持っていた本の話題になったらしい。
それは作家萩原葉子さんと息子朔美さんの本2冊、一冊は葉子さんの死後出された本「死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日」だった。
えっちゃんが「これぱとらさんに是非教えてあげて欲しい!」
そんな経緯で早速、私も本を購入したのです。
老眼になると眼鏡をかけて本を読むという作業もしんどいが、二人のせっかくの推薦なので真面目に読む。
葛藤というほどの事も無い仲良しだが,パリ東京と離れて暮らす関係から、息子との接点が希薄になるばかりで、もう彼が何を考えているかは分らない・・・と夏に二人が遊びに来た時に,甘えなのだが,少し愚痴ったのを、とても心配してくれていたのであるが。
そんな親子の感情を朔美さんが上手に書いているから・・・「是非」というのが,二人の推薦の理由だった。ありがたい若い友人達。
二人は知らなかったらしいが,私の70年代の青山の事務所には朔美さんの初期の作品、時間の経過を写した傑作、「林檎」の朽ちていく写真が飾ってあった。
一目惚れして買った作品である。天井桟敷のオープニングから観客なので彼の毛皮のマリーから全て見知っていた事と重なって、ヒトシオ感動した作品である。
確実に成長している朔美さんの姿に未だ小学生の息子への私の希望と祈りも重ねてみていたのかもしらないが・・・常に気になっていた葉子さんと朔美さんだ。
個展会場で出会ったのんに、朔美さんからこの本が贈られてきたそうだ。そして私へ・・・見えない縁を感じてしまう。
一方、晩年の葉子さんとは何回かお会いしてます。アダジオダンスや海の漂流物で作るオブジェ展など、催しの際に何回かお話もした。
凄く元気でピンと張った頬の皮膚感といい,羨ましいくらいの若わかしい人でしたがシャイで一度も息子さんの話は出なかった。
正確に言うと私の大学時代の友人が葉子さんからダンスを習ていたので,私もお会いすることが増えたのです。
友人の個展にアトラクションとして葉子さんが踊ってくださる事になり、進行役の私と会話を交わす中で私が持つ朔実さんの「林檎」の作品に話が及んだ。「大切に持っています」とお伝えすると
非常にうれしそうなお顔なさったのが印象的でした。
本文を読んでみて、当時アダジオ(男女ペアで高く持ち上げられたりする)を踊る程の驚異的肉体の持ち主、68〜70代の葉子さん、あの優れた肉体能力であっても老いは容赦なく来るということを再認識しました。
そして健康な人こそ晩年の住居環境を「まさか」と油断するのだな・・・そんな印象をも。
介護の為に他人を家に入れたがらない人にとって独居は家族をも苦しめるものです。
老いたら人の手を!プロフェッショナルな人々の手を仮り、介護の仕組みを良く知っておかないといけないということも。
お風呂やオシモはプロの介護に任せるべきで、老人になるとは他者の手をかりる覚悟を徐々に自分に言い聞かせることが美意識でもあると考えます。
葉子さんが闘病なさった186日は丁度私の父が入院から20日で亡くなった同じ年でもあったのです。
読んで分った事は,男の子と女親の関係はやっぱり、感情のズレを相当に覚悟して置くほうがが良い。
母親が若々しい、だけでも恥ずかしいとは驚きの感覚だった。
息子が良く言う「お願いだから、もう静かにしてて・・・」の意味が薄々分ったような気はしますが・・・
しかしだ!38歳の時から両親の老後を考えて、あらゆる老人対処をしてきた私です。
用意周到,且つ10年先きを読む老後を心がけている私の心配なんか息子がするはずも無い。冷たいのでは無く冷静なのだった!
誰でも歳を取るのだ。が、誉められたいのは息子からだけなので正しい老人道を頑張ろう。
えっちゃんとのんが「大丈夫」と言ってくれた意味が良〜〜く分った本でした。
私が母親である・・・は息子に少し申し訳ないけれど平凡であるとは平凡ななやみしか訪れないって事です。
稀有な才能の親子、萩原葉子さんんと朔美さんの紡ぎ出したもう一冊「小綬鶏の家」の交換エッセイの表紙が、これも昔、ワザワザ訪ねて行った有名になる前の船越桂さんだったのにも「縁」を感じてしまう隠居です。
昔住んでいた経堂にお住まいで床屋さんをアトリエにしておられました。スラリとした和服の似合う,江戸前なお母様そっくりな絵が表紙で、とても懐かしかった。
時はあっというまに過ぎてしまう。日々を心して紡ごう!
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