ジャガ芋の芽
冬を越して春まで置いておくと芽がでてしまうジャガ芋を見ると切なく成る。
昔、はるか昔、私の回りには何故だか詩人が多く、皆一癖も二癖もある変人だった。何故私のような凡そ詩とは縁が無い人間のまわりに集まったのか謎だ。やっぱり面白みが無いと解ってか、今や詩人は一人も側に居ない。要するに我が家で飲み食いしながら時間をつぶすのに地の利が良かったのだと思う。
ユニフランスの映画を京橋で見た後、良く集まっていた。
フランス語が堪能でボードレールなんか暗誦するので目眩しながら端っこにくっついていました。一人、凄く奇麗な女性が居てどうみても私と同じテーンにみえる人が本当は30才で、どうりで諳んじる詩も桁違いに度胸が座っていた。
彼女が「ジャガ芋の芽」という自作の詩を披露した時、考えたこともない暗い淵を覗き込んだようで吃驚したものだった。子と母親の関係を詠った物だった。
女親は結局子を産み落とすことで我が身を萎びさせて行くジャガ芋のような物。親の養分を吸い尽くしニョキニョキ育つ芽は子供。ジャガ芋の芽は残酷。そんな詩だった。
春にすっかり芽がでて萎びる前のジャガ芋を見るたびに、その若く見えた詩人を思い出す。風のたよりにドイツ人の写真家との間に本物の子を産んだそうだが・・・もう孫もいてすっかり萎びたことだろう。
捨てるに忍びず、丁寧に芽を取り粉ふき芋やスープにすると、この萎びたジャガ芋はもの凄く甘く美味しいことに気がついた。
萎びた母さんがやさしいように萎びたジャガ芋もやさしい味だ。あの詩を聞いて以来ジャガ芋にワザワザ芽を出させます。
犠牲的精神の、このキラキラな澱粉質に変化する種芋のおいしさは尊いね〜と思いながら毒素のある芽を抉りしみじみと味わうのです。