蔦の家
しっかりと記憶に留めておこう。この地に引っ越ししてきたのは昭和26年秋、私は小学4年生だった。その前年は日本橋の親戚のビルに間借りしてました。親戚と母との折り合いが悪くなり出て行く事になった父は、私達を連れて神保町の映画館でマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」を見てから、お茶の水駅の聖橋の階段に腰掛けてお握りを食べました。映画はさっぱり解らなかったけど、冷たい石の階段に座って食べるお弁当が喉を通り難く、父母の窮地がそれとなく解り、飛んで跳ねる無邪気な姉以外、誰も話すものはいませんでした。
何本もの電車が目の前を通過しても、きっと両親は戻るあてが無かったのだろう・・・夕闇が迫るまで階段に座っていました。
その直ぐ後にこのお茶の水に引っ越せたのは母の「女学生の頃から、ここお茶の水に住みたかったのよ」の一言だった。料亭の設計料を前借り出来た父は母の言葉に奮起してササヤカな土地を買い、戦後の長い居候生活を脱却できたのだから妻の一言には凄い力があるものだ。
当初の掘ったて小屋から・・・平屋を2階建てブロック建築に立て直したのが昭和36年で私は18才。38年結婚し家を出ました。3階を姉が建増ししたのは43年で、私達夫婦は世田谷経堂に未だ住んで居り息子は3才になってました。
妙ちきりんな外観は、オリンピック道路に買収されると噂があった頃なので本建築も出来ず、コンクリート打ちっぱなしも未だ一般的では無い時代でした。
何度も建増しした結果です。どうみても外からは3軒別々の家に見える住居を、蔦を写したくて北側の会社駐車場から記録しておいたのが上の写真です。平成2000年の事でした。蔦の占領した壁の一部を残した侭の塗り直しが、更におかしな様相でお化け屋敷状態です。息子もお嫁さんも蔦が好きなので撤去に孟反対されたからなのです(笑)。
50年近くも実によく保ったものである、と感心する陋屋ですが雨漏りも強くなってきました。
2008年に遂にこの家を覆い尽くす蔦を全部撤去し塗り直したのは、蔦好きとはいえ断腸の思いでしたが家が傷むので潮時でした。外壁を濃い緑色で塗り替え、窓サッシを直せば、一応質素ながら私好みで修復は完成する予定でした。
ところが・・・
塗装の直後に、なぜか2度目の骨折をしてしまい、この家に新たな難題が忍び寄っている事を知らされました。いつの間にか裏の会社に南側の駐車場までが買収されていたのです。北と東と南、我が家の三方をグルリと9階建てのビルで囲まれる建築計画が、秘密裏に進行していたのでした。鉄骨とブロック石のどこか間抜けな、でも堅牢な造りの、「天井桟敷の人々」を観てから父の脳裏に灯った希望の家は、風と光が全く射さない事になる。一大事です。
まだ十分に保つのに・・・
外からも完全に遮断され、もう周りのビルに埋没してしまう運命です。外から見えないのは、セキュリティー的にプラスで一向に構わないが、南側に高い駐車場タワーが建てばテラスや3階に、二度とお日様が入らない。窓を開けてもテラスに出ても高いビルの壁が鼻の先きにそびえるわけだ。第一、人の住む環境とは申せまい。車の出入りも激しくなり老母の通院の妨げにもなる。私の2度の骨折も、太陽に当たらない暮らしのせいで骨がガラスのように脆くなった為とお医者様にも指摘されているのに、更に陽が遮られる南の駐車タワー建設計画です。驚かずにいられません。
むかし、近隣の人達が生まれ育った土地を簡単に手放し離れて行く姿を見て、なぜだろう?と不思議で仕方がなかったが、まさか我が身にそんな事態が起きようとは・・・想像もしていなかった。しかもこちら側には何一つ出て行く理由が無いにも関わらずだ。
「あなたも此処に9階ビルを建てればいい」
相談すると、弁護士は、開口一番にそう言放つ。が、商業地区だが9階は建てられはしないのだ。
自己資金がないのは勿論だが、家の前の道路は3m強と幅が狭いので、斜光制限等でせいぜい5階止まり、採算の取れるビルにはならないからだ。しかし裏のビルとつなげれば話は別で土地価値は一挙に上がるが・・・裏(彼等からみれば我が家が裏なのだが)は自社ビルなのでマンションとは違い等価交換交渉もできない。さてどうしたものか?と連日策を練る間もどんどん工事は進み家は轟音に包まれ激しく揺れる。黙っているわけにはいかず抗議しながら、冷静に状況分析を重ね熟考しながら様々な交渉案を考えては呻吟する日々は老母には勿論、私にも実にキツい体験でした。
ネットで知識の有った、太陽集光器を会社側の屋上に設置してもらう案などを10箇条ほどの要求を突きつけました所、全て飲むとの回答があった。だが、最早1階〜3階での暮らしは車椅子の私には無理。結局は買い取りたいとの申し出でが会社側から出たのが去年の3月下旬。条件に合う代替えの土地探しが始まった。6月にやっと提示された土地は、旧岩崎邸の側、日陰だが70坪、だが広過ぎて固定資産税が3倍になってしまう等、とても隠居の身で賄いきれる税金では無いなど難問だらけ。
3世代が別出入り口、別台所という我が家の11部屋の代わりになる家など何億出しても何処にもないのです。しかも母の病院や先生、慣れた訪問看護士のサポートエリアでは皆無に等しい・・・、とても代替えとなる物件はみつかりません。
事前に交渉が一切無かったのですから我が家の護られるべき権利は当然はっきりと主張せねばなりません。人生の一大事を寝耳に水では対処のしようがないのでした。更に、知らぬとは恐ろしや、外壁を塗り、散々、家の修理にお金もかけてしまった私は進むも引くも出来ず、進退窮まるとはこんな状態か!と我が身の不運をあきれるばかり、工事の音で難聴には成るし、腰痛にはなると散々でした。
売却にも難問が一杯です。住み替えの権利は持ち主の私だけで・・・息子夫婦や母の為にも物件を分けると贈与税という弊害が発生するという問題に直面しました。巨大マンションは総てにお金がかかります。家を売って貧乏になる、という現実に晒されたのです。マンションは駐車場代、管理費,修繕積み立て金と、経費が掛かるうえ、好きな間取りなど一つもありません。一番の問題はどのマンションも障害者仕様は建前だけで全くといって考慮されている物件など無いに等しいのが現実でした。
一般的なバリアーフリーくらいでは車椅子で自立して家事全般をこなす生活は出来ないのです。
売らずにこのまま住み続けよう・・と何度も何度も考えたのですが、私の骨折による体力への不安に老母の胃がん宣告が5月にありました。最晩年を看取るのは私一人なので車椅子での介護生活には、3階建て住居では不可能です。老人介護と看とりを充分に年令のいったしかも障害の娘が看ない事には成り立たない経済と、明るく振る舞っていても他人とは絶対に馴染まない母・・・まいったな〜が正直な感想でした。
骨折直後、息子から2度も続けて骨折するには何か意味があるよ、と問われても過度な潔癖性ではあるが罰あたりは覚えが無い・・・。そして気づいた事は、もしや亡き父の計らいかもしれない?という事です。
多分2度骨折しなければ永遠に此処から離れること等ありえない私です。父は生前、「売るならば裏の会社に売りなさい」と予々言っていたのを思い出す。その会社が売って欲しいと言ってきたのだから。どんなに好きな家でも、陽が射さず段差だらけで外に出るにも困難な状態ならば、今、決心するしかないだろう・・・と悩みぬいた結論です。
一番に考える事は母を無事に看取るための私の利便性ですから。外にでられないなら四季を窓の外に感じながら暮らす選択しか残されていない・・・
要らぬ心配を母にさせまいと、ご飯を作りながら悩む日々でした。
太陽集光器の会社社長さんが「いくらでも協力します。あんなレトロな家はもう都会では滅多に見られません。壊すなんて勿体なさ過ぎです」とわざわざ電話を下さいました。もちろん、一番辛いのは私達です。現在の住いの11部屋をたった3部屋しか使ってない現状です。「壊すなんてとんでも無い!」と、心の叫びに身体が叫び返します「また転んで人生を終るつもりかい?迷ったら負け」
・・・なんという試練なのでしょうか・・・しかも空亡の時期の売却決断なんか、ダメに決まってるし許されるはずもないのにですよ。この先の混沌と政治不信と不景気に向かう日本を、除公升だって孔子さまだって読み取れるものではありませんっ。第一あんなに反対した高層ビルへの移転、何かの歯車が急回転しているようで落ち着かないったらない。
HPを立ち上げた11年前、サイトやブログに、部屋の写真を熱心に映しては載せていた事もいつか消えてしまう運命の予感が私にあったからですが・・・哀しくも切ない蔦の家。愛して止まない家だったが、裏のビルを解体し掘り返し、大工事が終った現在も、壊れもせずに、凛として未だ堅牢、我々を護っています。
「この家には癒しがありますね」と訪問看護師さんがつぶやきます。
出来るならば移りたくは無いが動け無い私の為に、あらゆる労を執って下さるのが意外にも当の会社の担当者です。不思議な事に20年前の昔、切り倒されようとした桜の延命をお願いし、聞き届けてくださった、其の会社でもあるのです。
今度の工事が始まる時に「皮肉なものですね、桜のお礼に私はいつも貴社の繁栄を祈っていたのに・・・まさか家に災難が!」そうお伝えしました。
運命ならば潔く受け入れる!これが我が家の家訓でもあるのです。ご先祖様の発祥の地、浅草に近い、上野池之端へとこの秋、居を移します。せっかく奇麗に塗った緑の家は道路からも、全く見えなくなってしまいました。せめてもの救いは壊すのを見ずに済むことでしょうか。
寂しく侘しい思いで一杯ですが床下まで伸びた大木の根がピシッピシッと音をさせ鳴るこの頃です。この家の潮時の音でしょうか。