刻々は希望の音
朝は部屋の電源を冬仕度ようにするために何時も来てくださるヘルパーさんにお願いし直していただく。狭いベッドの裏側へ回ってチェストをどかし、外れてしまっていたコンセントを壁の下側に差し込むという面倒な仕事を嫌な顔一つせずに嬉々として・・・。家に見える3人のヘルパーさんは、どうしてあんなに優しいのだろう。感謝で胸が一杯になる。昔、仕事をしていた現役時代、私も含め強過ぎる個性ばかりに取り巻かれていたので今のヘルパーさんやケアマネジャーさん、訪問看護師さん達の健全な心根に、常に感動してしまう私です。平凡は尊い。
そして個性の塊のような加藤和彦さんの訃報をtwitterで知った。無常なり。
骨折前では考えられなかった不自由な暮らしの筈の今、何一つとして不便も寂しさも感じない暮らしをしている不思議がある。まず今まで出会う事も無かった健全で素朴で明るいお母さん方や未亡人の働く婦人に支えられている生活の笑いに満ちた暮らしは、私の中の大きな変化から動き出した気がする。自立、自立と躍起になっていた頃は「お願いします」「ありがとう」「ちょっと手伝って」が苦手だった。ところが逆立ちしても出来ない事が多くなった今、この「お願い」と「ありがとう」が自然体に成っている。我ながら吃驚。何もかも自分で抱え込むと結果は人に対してのコミニュケーション力が希薄になる事に、入院中、嫌でも気づかされたのだ。時が止まり自分が退行してるような錯覚の時でも秒針は刻々と刻んでいるんです。人の持つ可能性を刻む時を。だから無駄も無意味も時の中には1秒も無い。そう考えると絶望の淵に居る人にも知って貰いたい。今刻んでる秒針が後半分も過ぎれば・・・考えも生き方も変わるって事を知ってもらいたい。秒針を刻む律儀な「時刻み」を自分から止めちゃうなんて、だから勿体ない。刻々は明日の音、希望の音。