2009/8/12 水曜日

胆識

Filed under: 人物 — patra @ 2:37:19

交渉事に関しては口頭でやり取りをしても埒が開かないことが多いので極力文章化して返答して欲しいと要求しても
これが中々こちらの質問に文書で回答してくれない会社側を相手に無駄な時間を過ごしていたら心底、体調まで悪くなってしまった。
何度抗議してものらくらと曖昧な態度で時間を引き延ばす彼等を観ていると,結局、組織の中で稼動している居る人間には知識、見識はかろうじて学べたとしても・・・胆識など育ちようが無いのだろうと痛感した。
私は将棋はできないのだが初めの一手、歩の置き場所が一番大事!くらいは分る。
破れは3年前から忍び寄っていたのだが、彼等の不注意、傲慢から来る損失を余程の胆識を持ってしても埋め合わせることはできないだろうと思う。胆が座っている…と言われる私でも長き不毛は身体を損なう。女の臥薪嘗胆なぞシャレにもならないのですが、もう一つ加えて胆識を養うしかないようです。ヒゲがはえてきちゃうかも・・・
届いたメールマガジンが又タイムリーでした。↓

【知識・見識・胆識】

いつも申しますように、識にもいろいろあって、
単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、
これは本を読むだけでも、
学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る。

しかしこの人生、人間生活とはどういうものであるか、
或(あるい)はどういう風に生くべきであるか、
というような思慮・分別・判断というようなものは、
単なる知識では出て来ない。
そういう識を「見識」という。

しかし如何(いか)に見識があっても、
実行力、断行力がなければ何にもならない。
その見識を具体化させる識のことを「胆識(たんしき)」と申します。

けれども見識というものは、
本当に学問、先哲・先賢の学問をしないと、出て来ない。
更にそれを実際生活の場に於いて練らなければ、
胆識になりません。

今、名士と言われる人達は、
みな知識人なのだけれども、
どうも見識を持った人が少ない。
まだ見識を持った人は時折りあるが、
胆識の士に至ってはまことに寥々(りょうりょう)たるものです。
これが現代日本の大きな悩みの一つであります。

 
 『安岡正篤 一日一言』より(致知出版社刊)


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