2005/6/8 水曜日

シャッターの向こう側に、もう一つの目

Filed under: 人物 — patra @ 2:41:04

今日から「禁色」の公演がはじまります。ほんとに偶然にNHKを観ただけなのに強く惹かれた伊藤キムさんが「AERA」の表紙になって本屋やキオスクから強いまなざしを送っている。不思議だな〜1ヶ月前は名前も顔も存じ上げない人だったのに・・・。

しげしげと表紙を眺めていたらある事に気がついた。我々を見るキムさんの眼差しはレンズに向けられているわけで、そのキムさんをファインダー越しに狙っているカメラマンの目はレンズとキムさんを通し我々を今度は凝視しているのだ・・・と。
その巨匠と呼ばれるカメラマンの目が実に優しい事を私は仕事で良く知っている。

この表紙のキムさんを写しているカメラマンは坂田栄一郎さんだ。アヴェドンの弟子で日本のファッション写真史を語る上で無くては成らない方なのだ。

スタイリストとして私のCMデビューは下着のワコールだった。其の時のモデルはシドニ−・ロ−ム、昔の美男俳優アラン・ドロンの最初の奥様でワコールが契約した外人タレント1号、その陽に灼けた美しい肌は信じられないくらい艶やかで、日本人の肌とは明らかに違う、何とも表現できないピンクがかった褐色は、金色の産毛に覆われ輝くばかりだった。

ラッシュ試写の時は男性スタッフから「おぉ!」どよめきの声があがったほど見事な色と艶は純白の下着がそれはそれは、眩しく映えたものだった。
コートダジュールでお金をかけて陽に灼く・・とはこうゆう事なのだな!という差を目の当たりにした瞬間だった。下着の撮影にそれ相当の美しさと品格を求めるにはフランスの人気女優さんの手間ひまかけた美しさとコケットリーを持って来て始めて広告塔として成り立つ事を最初の仕事で納得させられた。

その時のカメラマンがアメリカから帰ったばかりのスターカメラマン坂田栄一郎氏だったのだ。氏も平面ではないムービィは多分、その仕事が最初の頃と記憶している。ヘアはこれもニューヨークの須賀スタジオから日本へ帰ったばかりの天才、野村真一氏だった。

映画の衣装を1、2本撮っただけの素人主婦だったのにも拘わらず、その仕事をチャンスとばかり私は勢いでこなした。

そうだった・・・
そのワコールの演出プランにシドニーさんと絡むピエロが必要だったのだ。

<踊りの出来る人、誰か知らない?>

プロデューサーに聞かれ、若くてやるき満々の私は面識もないのに当時、才能溢れる天才ダンサーと誉れ高い、笠井叡氏に出演公渉の電話をおかけしたのだった。無謀にも、畏れを知らない行動だったけれど。

・・・お話を黙って聞いてくれてから笠井氏は「僕が広告に出るわけに行かないが、弟子の中にアナタの要望にピッタリな人材がいますから紹介しましょう」

その躍り手の名前を、今、思い出す事の出来ない惚けた私だが、月夜のシーンに白いネグリジェ姿のシドニーさんを驚かす月の精のピエロは、笠井叡さん紹介の舞踊家が演じてくれたものだった。
ブル−グレイのサテンで作った衣装を纏った躍り手は誰の指示もうけず、リハーサルも無しに完璧にシドニーの相手役、道化を演じてくれた。

私は自分が素人な部分をいつの時でも、その時々の最高な人材へアタックすることで足らない不勉強を埋めてきたように思う。その時の躍り手はあの見事な跳躍ぶりからしてもきっと名だたる名手だったに違い無い。

その後ドイツへ留学された笠井氏には今、その当時の叡氏とほぼ同じ年令の御子息がやはり躍り手として活躍されている。しかもキムさんは笠井さんと競演されているではないか。
坂田栄一朗さんのファインダーから見える伊藤キムさんの瞳に、そんな様々な時間が写りこんでいるのだ、と思うと人生は楽しい。

引退まじかにオリンパスカメラのCMの仕事で御一緒した時、「可愛いお婆さんになれるよ・・・パトラは」と坂田さんは、唐突に言ってくれた。

成れるならば、ぜひなりたいもんだ、と全然遠いことのようだったが還暦も過ぎ、その坂田さんは忘れただろう言葉を私は結構、指針として、しっかり生きて来たんだった。

AERAの表紙から・・記憶がであう瞬間。点と線。

古い記憶を書くと言う事は記憶違いがあるものだが、名前を間違うようでは・・・
訂正させてください。

シドニー・ロ−ムさんはこの映画でアラン・ドロンと競演後、結婚、ほどなく離婚しています。

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