2004/9/22 水曜日

3才までが全てです。

Filed under: 日々雑感 — patra @ 2:18:44

親である、という、たったそれだけの繋がりを根拠に「手前どもが親であります」と大威張りで特権を主張する事は恥ずかしい事なんじゃないだろうか。
親業に成らせて頂きます、と自らを律し勤めるくらいが丁度よいのかもしれない。放っておいて親に慣れるものじゃない。慣れ!はいけないのだと考えます。かわいそうな子供の事件が起きるたびに、この不幸の芽が型は違ってもどの親にも陥りやすいある種、親としての大きな甘え、勘違いに根ざしてはいないだろうか!と自らの胸に問い直してみる私です。

何の疑いも持たずに「子」を私物化している大人が多すぎて不安になるからです。思い出しても見て欲しい。自分が子供だった頃、3才、4才で、無理矢理、理解させられた事は、大人の都合だった気がするものです。我慢させられた事、叱られた事、全部しっかり記憶の中に育っていて、それが性格を作ってしまうのだ。
いいのだろうか?それで・・・。

東京大空襲の時、あろう事か我が両親は私を置き忘れて防空壕へ逃げたのを私はたった3才にして記憶している。それ以来、この親の元では余ほどしっかりせねば!と子供心に刻み付けた「覚悟」を、まざまざと思い出せる。両親の顔色をみながら気を使って生きて来た事を、二人は老人に成るまるで気づくどころか全く知ろうともしなかった無邪気な親だ。

子育ての中で同じような間違いを私もしているにちがいない。

子供の前で不用意に感情を爆発させたこともある、どれだけ子を傷つけるか、に思いが至らない。けれど子供はしっかり覚えているものだ。
いいのだろうか?それで・・・。
誰も知らないの少年の母親や「少年A」矯正2500日全記録に出て来る厳しすぎる母親像、どれも自分の中の一部として厳然と存在するから怖い・・・

時々、何かすまない事ですね、こんな親なのにしっかり育ってくれて、と反省しつつ謙虚に問いかけてみる。

子が親に謝るばかりなんて理不尽、いっそ大人が子に謝る事だって本当は心底、必要かもしれない。


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