お彼岸に想う
東京大学学友会ニュース創刊のお知らせが父の名前で届いた。生きていれば工学部木葉会の、卒業生名簿か「13年会」の僅か数人の列に加えられるのだろうが、いや、もう何も欲する所のない父は存命であっても、きっとこの手の通知をゴミ箱へ放り込んだであろう。
名も無いかわりに欲もなく、誰をも泣かせない生き方を貫き通し、見事に覚めた人であったからあらゆる柵を捨て去った晩年だった。
『礼記』(坊記篇)のなかで孔子は、「死は民の卒事なり」(死は人生最後の一大事である)と解いているが、案ずるより本当に呆気無い幕の下し方だったので墓石もそれに習う事として、予てより選び置いた文言を一字彫ることにした。
浄土宗では亡くなると、まず戒名を授かり仏弟子となって、阿弥陀仏のお導きで極楽浄土へ行き、更に修行を重ねて悟ることで良き転生を計る・・・と教えています。父は生前、忍のお修行を充分なさったので、さらなる修行は懲り懲りとでも考えたのか、生前、葬式無用、戒名無しと歌うように繰り返すのです。そのせいで浄土へ行かれないとしたら、それこそ一大事である。
そんな事のないように選んだ文字は『恕』すべてのものを赦す。という意味を含む一字です。
孔子の弟子、子貢が「ただ一文字、選ぶとして終生行うべきものは有りや」と尋ねると「それは恕なり」とお答えになる、かの有名なる『恕』です。これを墓石に彫る事は大分以前から密かに決めていた事ですが、それは私個人の願いでもありました。
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