象さんと白いパン
すいとんを作る日・・・全く具のない出汁もないすいとん。今ならまずくて、とても食べられない代物を命の糧にしていました。配給の饂飩粉を溶いて団子にした汁を、私が2〜5才くらいまで食べていました。お芋のツルや道ばたのヨモギ、口に入りそうな野草はなんでも刻んで入れてました。
カボチャやさつま芋が在る時は上等な方で土手のスカンポまで食べました。食べるものが無い恐怖は味わったことの無い人には決して理解できない感覚でしょう。
昭和21年当時、千葉の疎開先から母の実家深川まで行く途中、乗り換えの市電を待つ私と姉を連れた母を見て隣に居た女性が急にしゃがみ込み膝の上で風呂敷を開けると2枚の眩しい白いパンを取り出し、驚く母に押し付けて言ったそうです。
「お子さんたちにあげてください。進駐軍の払い下げで少しですけど・・」
恐縮する母にパンを渡す女性は涙ぐんでいたそうです。それほど私達姉妹は痩せて骨と皮だけ今でいうアイシュビッツの子供達のように目だけギョロつかせていたのでしょう。
合わさった2枚のパンをはがすと、たっぷりとバターが塗ってあったそうです。
何度もお礼を言い一電車遅らせてから母は其のパンを私達姉妹を袂で隠すようにして食べさせてくれました。
母はひとかけらも食べずにです。電車に乗れば沢山の飢えた目がその白いパンに注がれるに決っているからです。
トウモロコシの粉のパンやフスマ入りのパンしか無い時代・・・その良い匂いのするバターたっぷりなフカフカしたパンは一口噛むと頬がキュンと痛くなりました。
「痛い痛い、おいしい」と訳分からないまま飢えた私達は母の千切ってくれる指まで噛み付く勢いで飲み込でいたそうです。うっすらと記憶しています。
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