2005年の終戦記念日に書いた「象さんと白いパン」もう一度載せるセンチメンタルをおゆるしください。評論家の秋山ちえ子さんは今年91才におなりで母と同い年、現役は引かれていらっしゃるが凛としてお見事なくらいお元気です。この戦争中に死んでいったかわいそうな象さんのお話を、お嬢さんが小学2年生のとき、学校の図書館で見つけて持ち帰り.家族中涙した物語をラジオでご紹介下さったのが始まりだそうです。毎年読み伝えてきた象さんの話が今度はCDになって、やっと出るそうです。CDには米国の歌手、シンディー・ローパーさんに依る英語版も収録されているとのこと。戦争は嫌だな、戦争はぜったいにいけないよ、誰もがそう思ってくれることを祈ってこの象さんさんの話,私も繰り返しここに載せようとおもいました。オリンピックの最中にも石油のパイプラインの利権をめぐり理不尽な戦争をしかけられている国民がいました。小さい火種を大きな戦争にしないためにも我々が戦争は悪い事、と語り継ぐことでしか、子孫を守れないからですが・・・もうじき誰も戦争を知らない世代ばかりが増えます。庶民の智恵として語り継ぐしか術がない。飽食の時代,食べ散らかす罪や毒餃子や汚染された食物、偽装もちいさな戦のきっかけになるって事を上手に子供たちに伝えてほしい。たべものは命をつなぐたいせつな源、おろそかにしてはいけないって事を・・・・
赤塚不二夫とトンデモない仲間達!!3/8とか
好きなブログの一つさとなおさんが書いてらっしゃる事は偶然にも私の仕事でよく知っている人々、例えばカメラマンの稲越功一氏が本番の撮影時にはお洒落なスーツ姿でビシっと決める・・・(昔は白いマフラーも下げ、いつも濃紺のスーツで決めてました)等と出てくることがあります。けれど20歳以上も年齢が離れている私は現役時代は勿論今もブログでしかさとなおさんを知らない。ただ微妙に生きて来た道での人の好み、嗜好が似てると思うときがあるのが一方的にうれしいのだが。ギョっとしたり、おっと思ったり。先日も赤塚不二夫さんの葬儀の際のタモリさんの弔辞、全文紹介して下さった上でその弔文は 白紙の巻き紙であったこと!「勧進帳よろしく諳んじてみせた、彼独特の密室芸だった」とお書きになっていた。これは聴いていた人なら誰もがオヤ?と思う一節をタモリ氏が口にするあたりから何か深い伏線がこの弔辞にはあるのだろう・・・という我々の、漠然とした疑問を一瞬にして氷解してくれるものでした。
赤塚さんは飲み会でタモリさんは仕事で、現役時代に、時代はズレてはいましたがお会いした私には、さとなおさんの日記によるタモリ氏の真剣勝負、正に目から鱗・・・何と粋な芸(ギャグ)で恩返ししたことか!と嬉しくなりました。赤塚さんは昔、多分ガロの総編集長をなさっていた頃で大多忙な筈でしたが、よく「話の特集」の若い編集者達と打ち合わせを兼ねて渋谷、新宿界隈で遊んでおられました。40代だったはずです。
ちょうど最初の奥様と別れた頃だったでしょうか。大漫画家なのに人懐っこくシャイでした。
ある日、夕方ふらりと一人で編集者達のたまり場「一番の上」にお見えになった赤塚さんは痣だらけです。驚いて伺うと「驚いちゃうよ、バーのママさんと喧嘩になったんだけどさ〜本気で殴ってくるんだ、それもハイヒール脱いでそれで殴るんだよ,卑怯だよね〜」と真剣にボヤイて破れたセータの傷をみせてくださった。お酒を浴びるほどお飲みになるらしい、しかも女性と取っ組み合いの喧嘩?やたらピストルを撃つ漫画のおまわりさんと重なり恐ろしく敬遠したい気分でしたが私の友人は大笑いしながら慰めていました。
赤塚さんが女性より男性とよくお飲みになるのは、その恐ろしい喧嘩がトラウマなのでしょうか?等とくだらないことまで思い出すわたしです。タヌキ御殿というヒゲもじゃに日本髪を結った奇妙奇天烈なゲイバーへお伴した時も編集者と一緒でした。スタイリストになり始めの私がこんな奇妙な世界が日本に存在するのか!と呆れたほど強烈なインパクトが45年前の新宿雑居ビルの中に・・・あれ以来ほとんどの事に驚かなくなった私の目にはゲテモノ初洗礼でしたね。ゲイといえば美少年、と思い込んでいた無邪気な私にいきなりフェリーニ風の悪趣味且つ太った女装(今では珍しくないGMさん、しつれい)が接客し商売として成り立っているのですから実に貴重な体験でした。
もちろん男どもにしか興味の無い彼ジョ等は同行の若き編集者を襲います。その度に未だ純情な人妻だった私は必死に彼ジョ等の猛攻から編集者を庇ってあげていた!というお粗末、赤塚さんはニコニコして嬉しそうに飲んでるだけ。
もう記憶が朧なのだが当時経堂に住んでいた私は、確か赤塚さん関連の誰かを、三上寛さんの住んでいた成城まで一緒に車で送った記憶もある。あるいは三上さん本人を?あの時代、誰が誰なんて深く追求せずに袖摺り合うも多少の縁とばかり何も頓着しなくとも無事、目的地へ行き着いていたものです。そんな赤塚さんのまわりに集まる芸人や友人たちの映像が、YouTube動画でも見られます。多分還暦祝いの企画か? 三日間旅館にカンヅメになった赤塚さんをかつての弟子達が一堂に集まり50ページの漫画制作の助手をする・・・というイベントです。
(息子の交通事故のとき、友人を介し名入りの色紙までいただいたのに、当時10歳の我が息子は手塚治虫氏の色紙ほど感激せず今や色紙も見あたりません。わたしも罰当たりだ・・・。人間にとって価値観などは脆く残酷なものなのだ、と赤塚さんが一番よく知っておられたのだろう。これでいいのだニャロメ・・・お見舞いには不似合いな色紙にちから無く笑ったものでした。)
この何本もある動画をこのところか隈無く見つづけました。赤塚さんは出会った頃のまま、ずっとペースを落とす事もなく毎日飲みつづけ遊んで仕事しての生き方を実に50年も続けていたことになる。画面を見ていたらタモリさんが赤塚さんの一つの作品ならば「これでいいのだ」に辿り着くまでの赤塚さんの人脈のすごさが胸にせまってきます。赤塚さんに声をかけられた頃の九十九一の良さや三上寛の巧みさ・・・沢山のソウソウたる弟子たちや芸人達。
赤塚不二夫さんのような、ただただギャグ芸人を見続けてくれる存在が無い今の日本の芸人はどうやって、紙一重の際どい部分、自己研鑽をするのだろうか?気のどくな時代になったもんだ・・・と思った。
目と鼻の先の病院に7年も入退院を繰り返されていらしたとは、残念です。 赤塚さんの想い出で一番好きなことは先妻さんを「美人なんだよ」黒柳徹子さんに似てる、と教えてくださった事。そして2度目の奥様とお二人が仲良しである〜と漏れ聞いて流石だな〜と感心した事。このことは赤塚さんの懐の深さをあらわしています。今ごろ2年前に亡くなられた奥様と赤塚さんの死の二日前に亡くなられた前の奥さまに出迎えられて”両手に華なのだ”と照れ笑いをしながら涅槃に向かわれたことでしょう。冥福を心よりおいのりします。