終戦記念日・浅蜊を剥いていた母
68年前、終戦記念日の記憶が有る、というと当時3歳で覚えているのか?と訝られるのですが、どうも私は幼児期から情景をまるで写真を写すように脳裏に記憶しているようなのだ。
後に火事になって焼けしまった千葉の疎開先、住宅公団?の長屋は台所が土の土間、そこの真ん中の光が差し込む土間で母は浅蜊を剥いていた。
ラジオの雑音まじりの玉音放送も鳴っていた。ラジオのある2帖ほどの上がりかまちの台所に畳みが敷いてあり、いつも母の後ろ姿を見て居た私だった。
貴重な浅蜊は朝一番に浜で漁師さんに分けてもらったものだ。
佃煮にするために若い母はラジオに背を向け振り向きもしないで浅蜊を剥いて居た。
我々姉妹に食べさせる事だけが重大問題だった両親は戦争が終ろうが関係なく食糧だけを必死で確保しようと努力していたのだ。
何度も思い出す土間の光景と音・・・ラジオから流れる雑音と浅蜊の殻をバケツに投げ入れる音が混じる・・・それが終戦だった。
なぜラジオがつけてあったかは、その朝、町会から「大事な放送があるので聞くように」と長屋にお達しがあったからだ・・・
後日その話が出るたびに
「あんに凄い映画を作るハリウッド(つまりアメリカ)に勝てるわけが無いと思っていたから負けたと聞いても驚かなかった」と笑っていた。
母は女学生の頃から大の外国映画好きだったのです。
終戦後から10年、お茶の水に家を持つまでの父と母の努力は、到底マネの出来ない日本人の当時の勤勉さと努力だったと思う・・・あの時代の焼土と化した東京下町を蘇らせた力は庶民の食いしばるような忍耐だったと思う。
農作物を金品と交換しなければ、決して分けてくれない農家より、黙ってバケツに地引網の恵みを分けてくれた漁師さん達がありがたかった、忘れられないと良く口にしていました。