カステラの箱
病院へ見舞いに行ってくれる姉が玄関から声を張り上げて呼ぶのでヨッコラサとドアを開ける。下の鍵を外すのも大変なのだ。
「カステラの箱を持ってこい、と煩く騒ぐのだけど、一体何?、カステラって」姉が困った風に聞く、「あぁ、お爺ちゃんの金庫、小切手の入ってる箱よ」そう答えると「それを今すぐに持ってこい!と大騒ぎ、昨日は忘れちゃったのよね、なにも食べられないのにカステラの箱を持ってこいとは何事だろうってさ・・・」
父の部屋から銀行の引き出し用紙と私が預っていた古いあちこちを黒いビニールテープで補強した50年は経た文明堂のカステラの箱を渡す。
父は去年の入院時も病室で小切手に自らサインし、月の生活費を母へ渡していた。いよいよ
来週から放射線、と決まった日にカステラの箱を持ってこい、と騒ぎ、意味を知らない看護婦さんから姉に「何ですか。カステラの箱って?」聞かれても姉も知らず、問いただしても中身を教えたくない父はただただ「今すぐここへ持ってこい!」とひたすら叫んだのだそうだ。
母を生涯、食べさせる約束の父は自分に死期が近いとは露も思わずに、責任感から金額を書き込み姉に渡し「いいか!3ヶ月分だぞ、全部使うな、とかあさんに言え」
24日の事です。たいした男だと感心する。自分が苦しいベッドの上でも母を心配する明治男の気概とやさしさが溢れている。それほど気にかけてもらっても妻である母は当然のように受け取るだけ。
翌日、病室で父は母に「おい、お金は貰ったかい?」と聞いたそうだ。
「あ、頂きましたよ!たしかに」
すると父は「なら、なぜきちんと報告しないんだ、お前ってやつは」と呟いたそうです。一時が万事そうした食い違いのなかで暮らしてきた二人が最期の日に、やはり死に目には会えずに終わったのです。
28日の夕方、個室に代わった父は「病院に殺される」としきりに言ったそうです。肺に水がたまり心臓も圧迫する苦しさからなのか、何度も酸素マスクを取ろうとして先生に注意されていたので母が私の伝言、「家に連れて帰りたい」と言うと「もう動かせません。酸素の器械が自宅では使えないので無理です」と拒絶されたそうです。
7時過ぎに「おい、夕食は1食くらい食べずにいても大丈夫だろう、まだ居てくれ・・」「えぇ、でも足の痛み止めを忘れたからそろそろ帰りますが、また来ますよ」
「そうか」そしてウツラウツラし始めたので、それが会話の全てだったそうです。
疲れた顔をして戻った母に食事をさせ、「まずとにかく寝なさい、多分2時ころ呼ばれるからその時に行けばよいから・・・」どうして私がそう言ったのかは分かりませんが呼ばれた2時は父のこと切れた時刻でした。
病室を移った直後、「この辺のもの全部持って行きますね」と看護婦さんがヤクルトや水分を冷蔵庫から下げて持ち去ったと聞きました。え!、水断ち?、それは確実に死へ直結する行為だろう...?と後で聞いて後悔するのだが、私がお骨の横に口を開けたヤクルトを供えたのを見て母は思い出したかのように...<そう言えば「ヤクルトが飲みたい」とお爺ちゃんがしきりに言ってたわよ、と息を飲む。私が病人の看病に着いていたらもっと長く生かせられたかもしれないが、それは苦しい痛みを長引かせることとも同意語なのだろう。
驚くほど安らかで綺麗な死に顔なのが家族へのせめてもの慰めだった。命日が29日では苦しき日だから・・・と息子に訴え、なんとしても浄土へまっしぐらのお日にちが良いと電話口で泣いた私に父は昨日元旦の夢に、こんな気配を伝えてくれました。
「数字をばらしてみろよ、足せば、おまえの希望になるよ」そうだった2+9は11日。なるほど大好きな11日にしっかりと成るではないか。
お爺ちゃん沢山の花に埋まるようにして納められたんです。ちょいとないくらい
穏やかなお顔でした。
31日は遺影とお骨のある茶の間に息子やフミちゃん、母、猫たちとにぎやかに父を忍びました。灯した蝋燭、たむけたお線香は尋常成らない数です。遺影に語りかけながらいっしょに食べる父の好物、こうして喪に服くしながらも暮らしはつづきます。