母の思い出
来年の25日は母の7回忌になります。
時が過ぎるのは早いものです。この池之端に引っ越して僅か25日で、眠る様になくなったのです。
窓から見下ろす不忍池、近くにある伊豆栄、清水観音堂を大喜びでした。
「雲の上に眠っているみたい、嬉しい」と大はしゃぎでしたから・・・
或る意味大往生でした。
着物しか許さなかった父が2004年に亡くなって以来、着物から完全洋服にした母に私と姉は良くユニクロの男物ジャケットやズボンを選んであげました。
とても良く似合って、通っていた東大病院では
「作家さんですか?」と訊かれた!と喜んでいました。
貧乏な娘だった私達は他に選べなかったのですが・・・88歳のモダンな母です。
亡くなる半年前の6月、この頃、初めて胃がんを宣告されました。92歳の時、2歳違いの妹さんの叔母サマと嬉しそうに写した写真です。
姉妹揃って90歳以上、とても病気には見えない元気さでした。
本人の希望で一切の治療はしない、と意志表示していました。良く食べてくれたので奇蹟を願って毎日好きなものを作ってあげていました。
引っ越し準備の為に9月に入院させた病院で一気に病人になってしまったのは病院で検査ばかりされ、断食を強いられたせいでしょう。
引っ越し後戻って来た母は痩せて、一度もお風呂にも入れてもらえず汚れていました。
ヘルパーさんを母親専用に自費でお願いし、せっせと綺麗にしてあげたのが、せめてもの親孝行でした。
眠る様に亡くなったお顔はまるでマリア様のように綺麗でした。
これで良かったのか?自問自答しながら、もっと長生きをして欲しかった!と元気なご老人の話を見る度におもいました。
しかし、考えれば38年もの長い時間、私は母の人生を私にできる範囲で懸命に伴走してあげていたのです。
暗い介護のニュースを見る度に、今は時代も違います。家族だけで老人を見る、という孤独はできれば避けたほうが良いですね。国が求めている家族間での看取りを
率先してしてきた私は
自分を見失わない様に生きる術も必死で探りながら老人と暮らしていました。
笑顔で楽しそうな母の写真を見ると、これで良かったのだ、と自らを慰めてみました。
引っ越しの決断も、自ら車椅子でも母を介護する決心だったのですから・・・
今は両親に護られている、と強く感じています。