父の日
姉に期待をかけていた父は、戦後、まだわら半紙に印刷したような粗末な建築雑誌の本に姉の名前で図面を投稿しました。採用された図面には「わたしのお家」しげた のりこ・・・そう記載されていた。
東大も出ている自分の名前では恥ずかしかったのだろう・・・
その後大きく成長し姉は桑沢へのインテリア科に進学、遊んでばかりいて、尽く父の理想からは離れたお銚子者に育ち、期待どうりには行かなかったが、父は溺愛し、車を買い与え、無理して巴里にも遊学させた(1ドル360円の時代だ)。阪急デパートで巴里行きの衣装を誂え有頂天になっている姉は、何処から見ても大金持ちのお嬢様、それくらい趣味も良く、高価なものが似合っていた。
建築科同窓会にも姉を連れて行くほど内心、相当に自慢な娘だったと思う。
ところが姉は父の期待に応えるどころか、迷惑ばかりかけていたが、一向に恥じ入る事もなく、好き放題二度の結婚をし、遂には父の建築事務所を後足で砂をかけるようにして去り、廃業に追いやった。
見向きもしなかった妹の私に、流石に咎めるのか何も言いはしなかったが、明らかに父は失望しているようだった。
客観的に見ていた私は、自分が建築の勉強をしてなかった事を悔やんだが、姉が父の元を去ってからは、なんとか父の窮地を救わねば・・・と必死に家族の再生だけ願って、家に家賃を入れ少しでも安心させたかった。
其の時父は「お前だけだよ、お金を家に入れてくれたのは・・・」と眩しそうに呟いた。
姉だって親不孝だったわけではないのだろうが、余りにもチヤホヤされて育ってきたので、「地球は私の為に回っているのよ」と冗談にも言う人だったから仕方がない。父がそうしたわけだから・・・
もう姉も、父も母もいなくなった今、心配性で家族の顔色ばかり見ては我慢していた、15歳なのに晩年の老婆のように疲れた子供だった私だけが残った。
父が残してくれた知恵を遣い一人で暮らしている今、鏡に写る自分には、あの苦労が滲み出たような「晩年の子供」のような不安げな顔が消えていた。人生は何処かで辻褄が合うものだな・・・そんな事を思いながら、チヤホヤを全くしてくれなかった、遠い存在だった父に、「ありがとう〜」とシミジミお礼を言った日なのでした。