2010/2/9 火曜日

命を知る

Filed under: 人物,日々雑感 タグ: , — patra @ 1:20:27

CIMG5947この前、さとなおさんが手相の ことについて書いていましたね。五味康祐さんの名前が出ていたので「あれ、随分若い時から手相に興味を持っていらしたのだな、と思いました。剣豪作家として有名だった五味康祐氏は長髪、あごひげに着物姿の作家で晩年は盛んに易や手相を看てらした。丁度私が21〜26才頃だから其の時代にさとなおさんは少年の筈ですから早熟です(笑)
でも誰でも自分の運命はどんな船に乗りどの港に向かうのか?興味があるはずですから彼は易や手相を学んだのは、実に偉い少年だったのですね。丘に着目するなんて・・・
ちなみに私はマス掛けですが、此処に来て生命力の張り、丘が萎びました。
先日も知り合いの殿方が「易はこんなことまで解るなら、恐いですね」とお仲間の女性を看たついでに看ましょうか?と水を向けたら真面目に手を振って、慌てて帰られました。

でも自分という器がどんな人間であるか、どんな弱点があるかを知らずには立命は決して出来ない物です。それにほとんどが性格という遺伝子の侭、向かってしまう中年期45才頃、真剣に自分と向き合うのは良い事であって怖がることではありません。晩年を建て直す作業に易は有効です。
手相は若い人向き、何故なら大方は恋愛運のみ興味があるからですが、ほんとうに己を知りたい人は四柱推命の現本「淵海子平」が効果的です。江戸時代に日本に入ってきた淵海子平は、その難解さに全文訳される亊無く日本人向けに「四柱推命」として広く一般的に広まりました。但し「敗財」という星を隠し比肩,劫財と同じ位置に置いてますが性質が全く違います・・・筮竹を遣い吉凶を判断する断易にも「淵海子平」を読まなければ易経を理解できないものです。
極めれば極めるほどに奥の深い易を学んで20年が経ちました。
君子(紳士)にこそ必要な考える為の羅針盤が易ですが、人の頭を叩いて言う物でもない。生きる知恵なのに、何だか昨今は「易経」が地に落ちたように感じます。
稀に霊感など特殊な予知を為さる方がいますが易は勉強なので、何度も学んで経験して得る人生の答えですので信じる信じないという定義では括れません。
下に安岡先生の言葉をお借りしました。

【知命・立命・天命 1】

実は自分を知り自力を尽くすほど
難しいことはない。
自分がどういう素質能力を
天から与えられておるか、
それを称して「命」と言う。

それを知るのが命を知る、知命である。
知ってそれを完全に発揮してゆく、
即(すなわ)ち自分を尽くすのが立命である。

命を知らねば君子でないという
『論語』の最後に書いてあることは、
いかにも厳しい正しい言葉だ。
命を立て得ずとも、
せめて命を知らねば立派な人間ではない。

 『安岡正篤 一日一言』より
  (致知出版社刊)


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