2007/9/5 水曜日

老人問題についても学ぶ・・

Filed under: 家族,骨折日記 タグ: — patra @ 0:16:03

セーフスという超音波をかけている間はベッドの上に釘付けなので毎朝、早くから右太ももと左臑に20分づつ計40分機械をかけていました。振動も何も感じないので果たして骨はどうなっているのでしょう。終わったあとがいくらかダルイくらい・・・。
「その内、効いてくるよ!♪」担当医の嬉しそうな笑顔に、アレ!?先生が笑ってる?入院以来はじめての経験でした。「な〜〜んだ!、笑えるならもっと笑顔でいればいいのに・・・」とか密かにおもう私も然り、この時期になって、やっと表情が柔らかくなってきたのが自分でも解りました(笑)つまり睨みあってた路上の猫同士だったかも。

部屋は4人部屋で私が入院して以来4人ほど入れ替わりました。

目の前のベッドには母と同じ年齢の老婆が一番古株で、やはり家で転倒、治り難い部分を骨折してらしたが、「痛い、痛い」と念仏のように呟くばかりです。お身内か?と思っていたお見舞いは日替わりのヘルパーさん達で、一人暮らしの老人だと分かりました。しっかり受け答えが出来ていたのが、在る時から言動がおかしくなりました。日々痴ほうが進んできてるように話しの辻褄が合わなくなっているのです。このヘルパーさん達は特筆すべき優秀な人達ばかりで、病室に入るなり新聞の見出しを見せ日付けを認識させ、散歩にも連れ出す等を、短い洗濯の時間を利用してお婆さんを励ましてました。

担当の看護師さんは16人交代で、申し送りをしても、細かい事は伝わりづらく毎日、目の前で様子を見ていた私が、何時のまにかお婆さんの事情に精通してしまいました。
お婆さんは初めから身寄りが無いわけでは無く、夫と娘さんに先立たれた後、介護保険を利用し気丈に独り暮らしが出来ていたのに、廊下で滑って骨折したそうです。
[誰か,廊下に何か塗ったのよ!」と想像力逞しく話すお婆さん。
そのお婆さんを他人事とは思えず、ベッドから乗り出したり、足を冊に挟まれたりする度に呼び鈴を押し、看護師さんに知らせてあげていました。
忙しい看護師さんたちは「痛い痛い」と頻繁に騒ぐだけでどう痛いか説明できない老人を段々相手にしなくなったからです。

救急で入院し銀行預金を当人じゃないと引き出せない・・といった最近のシステムもあり、転院の話が病院から出された当りで妄想や疑心暗鬼にかられ、物を投げたりベッドから落ちたり、呼び鈴をハサミで切ったりと、危険になってきました。
何が一番心配なの?とお婆さんにベッドから声をかけると看護師さんが車椅子で私のベッドまで連れて来てくれるようになりました。
「留守の間に家が病院に乗っ取られたのよ、私の部屋なのに襖もタンスも改造されちゃった。貯金通帳まで盗まれたのよ」と真顔で訴えるのです。

それからは機会あるごとに手を握って「ここは病院よ」と繰り返し、話してあげましたが、老人病院へ転院するまでに果たして正気に戻るか心配になりました。
治る見込みが無い老人は遅くても3ヶ月以内に他へ転院させなくてはいけない!とその時に初めて医僚制度の仕組みを知りました。その後、自己負担なのです。

認知症特有の被害妄想が酷く、病院のご飯に毒が入ってる!とまで言い出しました。昼間寝てしまうので夜に騒ぐという悪循環は、ついに部屋中、全員寝不足になってしまう始末。お婆さんの心配ごとを、お見舞いが来るたびに遠い親戚やヘルパーさん、病院のソーシャルワーカーさんに通訳して、事情をお聞かせしてました。

永遠に入居できる老人病院は高く、関係者は必死で探してあげていました。それでもお婆さんは「騙される」と私に何度も愚痴るのです。
ついに決心してお節介であると重々承知した上で申し上げるのですが!とお断りした上で、お婆さんの担当医やヘルパーさん、親戚の方に提案してしまいました。「このまま他の施設に行ってもお婆さんは、もっと混乱するでしょう、一度車椅子でご自宅に戻し、お家が何とも無い事と、タンスの預金通帳をご自分で確認させてください。そうじゃないともっと痴呆が進みますから」

病院が動いたのは1ヶ月後、4月に入ってからでした。お婆さんは遂に家に一度戻りました。
それから間もなく転院して行きましたが、別れのその日、頬を流れる涙をハンカチで拭いてあげると「今度こそ、あんたさんの言うようにお友だちいっぱい作ります」とぎゅっと手を握りかえしてくれました。

混乱と痴呆はすべて愛の不足が重るせいです。くどい話の繰返しに面倒だ!と思ったのも事実です。もし、我が母が独りでいるような時、優しく耳傾けてくれる何方かの想いを受ければ有り難いし、現に今でも独り留守番に耐えているではないか、母には決して出来ないくらい根気良く聴いてあげました。
輪廻とは不思議です。母にも同じ体験が起こりました。
この夏の猛暑で体調を崩した母は、通院していた病院の看護師さんやヘルパーさん、総べて他人の手だけで近所の病院へ入院させてもらいました。

電話口で「老人病院へ入れるしか無いでしょ!」と宣告を受けた際、果たして何人の老人が終の住処として病院に無事着地できるのかしら?と思っていた心配が現実のモノとなり私にものしかかって来ました。が、老人病院は高く、長引けば速攻で経済を直撃もします。
このまま母に会わずに、多少お安いにしても遠方に行かせるには、私が見舞いに行けない分,孤独と言う問題が残ります。
誰にでも起こる運命が、やっと揃い踏みで押し寄せてきた感じではありますが、もうちょっと様子を自宅で、ヘルパ−さん達と介護体勢を取ってみてから、それから考えてあげようと思うのです。
どのみち近所の老人病院は満室なので諦めもつくと言うものです(笑)

・・・たった独りになっても有料老人施設へ入れるだけの貯金を心掛けていた、同室のお婆さんは、実は幸せな老人だった・・・かも?と改めて認識をしました。

長生きするのに[老人病院」問題と言う、こんな心配があるなんて,考えた事もない世間知らずの私でした。


  1. 御自身が大変なのに、同室の方の心配まで・・・
    無視できなかったpatraさんは優しいですねぇ〜
    医学が進歩して長生きできるのは嬉しいことですが、
    自分が自分であることが、分らなくなって生きていくことは
    辛いことですね。
    私はこちらで人生の終焉をむかえます。
    こちらの老人医療制度も複雑で、理解してはいません。
    色々問題もあるようです。
    どなたかが言っていた、「PPK」でいきたいものです。
    ピン(P)ピン(P)コロリ(K)
    しっかり生きて、その時がきたら、コロリといきたいものです。
    が・・・現実は・・・
    老人問題は誰にも降りかかる問題ですものね・・・
    難しいことです。
    お母さまと自宅で様子をみるとのこと、
    お母さまもきっと喜ばれると思います。
    patraさんの前向き姿勢に感服・・・
    フレ〜フレ〜!patraさん! ♪♪〜

    コメント by sakura — 2007/9/5 水曜日 @ 7:39:09

  2. sakuraさ〜ん
    どの選択が一番良いのかは,母に聞いてみるのが良いのに決まっていますが
    当人は今の病院のサービスがそのまま受けられると思い込んでるので・・・
    他へ移ったら其のギャップにきっとすぐ帰りたい!と騒ぐだろうと予測してます。
    母が望むのであれば無理をしてもと考えますが、きっと値段を聞いたら這ってでも退院してくるんじゃないかな?(笑)文京区は問題外に高いです。
    いちばん問題なのは傷の消毒以外、どこも悪くないので暫くは自宅で我がままにしてるほうが未だ良いかな?
    膝のリハビリを指示したら自分で歩いてトイレへ行けたそうですよ♪。
    息子がヘルプするから・・私に無理しないで!と言いますが無理はしません,知恵を使います(笑)。
    それに子の居ない彼等の老後にこそ不可欠ですから丁寧に断りました。私もPPKのつもりで居ます(笑)
    いつも応援ありがとう〜

    コメント by patra — 2007/9/5 水曜日 @ 10:41:37

  3.  Patraさん、お母様と御同居なさるとのこと、何よりですね。

    >無理はしません,知恵を使います
     いかにも、Patraさんらしい!

     知恵とそのユーモアで、お母様との暮らし楽しんでください。

    コメント by 酔仙亭 — 2007/9/6 木曜日 @ 18:10:20

  4. 酔仙亭さま
    いつもコメントくださって読むのがたのしみ♪励みになります。
    今日はリハビリの日でした。
    2階までリフトを使いあがれました〜
    父の亡き後、そのままにしていた部屋を少しは広いので母用に直します。

    江戸っ子だから・・笑いは常にお伴な二人です。
    おかげさまにて良いケアマネジャーと出会えたので相談してます。楽しく工夫しつつ乗り切れそうです。

    コメント by patra — 2007/9/6 木曜日 @ 22:45:28

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