翌日は高カロリーw
控えめと言っておきながら、太っては駄目っと言いながらシッカリとステーキ。
もちろんチャント野菜をタップリ添えて・・・
茄子、ズッキーニに葱とトマトのラタトィユ、トマトが足りなかったので水煮缶を!と思ったら高い調味料入れの棚に乗っていたので諦める。
側にドミグラスソースの缶があったので代用・・・余ったらビーフストロガノフにするからいいや・・・
極力塩分を減らす為、茹でたインゲンは何も付けないでそのまま、かえって甘味を感じてとても美味しい。
控えめと言っておきながら、太っては駄目っと言いながらシッカリとステーキ。
もちろんチャント野菜をタップリ添えて・・・
茄子、ズッキーニに葱とトマトのラタトィユ、トマトが足りなかったので水煮缶を!と思ったら高い調味料入れの棚に乗っていたので諦める。
側にドミグラスソースの缶があったので代用・・・余ったらビーフストロガノフにするからいいや・・・
極力塩分を減らす為、茹でたインゲンは何も付けないでそのまま、かえって甘味を感じてとても美味しい。
これ以上1ミリたりとも太れない・・・1日1食という夜集中がやはり太る原因ではないか?と心配になる。何とか考えないと
キッチンだけの部屋なので日中台所を拡げるわけに行かないのと,朝、昼と掃除洗濯、宅急便と忙し過ぎて食事をする時間がないのだが、時々お八つ、と称して食べるケーキも問題ね。
結局ぜんぶ自分が悪いのだが・・・
母の怨念も凄いかもしれない。
生前、看護師さん達にも「あのこが食べないのが心配・・・」と言い続けていたそうで、何となく遺言のように必死に食べていた気がする此処3年だった。幾らご飯を一切食べないといっても、やっぱり量も多いのだろう。
作るとどうしても量が多くなるので、これが大問題なのだ。
何処へ行ったのか知らない間にウエストが行方不明、失礼しちゃうわ。
それに3年間、この広い床をほぼ毎日床掃除してたら、何?この二の腕・・・全く失礼しちゃうwと仕方ないので自分に怒る。
終戦記念日に何年振りかで「すいとん」を作ってみました、茄子とインゲンだけ、当時は1種類の野菜が入っていれば大ご馳走でした。」
うどん粉の焼いたもの、これは父が当時3歳の私に作ってくれたもの。
あの思い出してもせつない食糧難の時代にこうして僅かばかりの配給の食糧や粉、着物と交換する南瓜やサツマ芋で生き延びてきたのです。
父はある時千葉の海岸近く実家の母親の別荘に我々を引き連れて引っ越ししました。居候です。母が社宅を電気コンロにかけっぱなした薬缶で火事をだしたからです。
満州から日光、市川、千葉と流転した父も火事は予想外だったのでしょうが何一つ母に小言は言わなかったそうです。
一切の家財道具を失った父は他に術がなかったのでしょう。暗い終戦でした。
68年前、終戦記念日の記憶が有る、というと当時3歳で覚えているのか?と訝られるのですが、どうも私は幼児期から情景をまるで写真を写すように脳裏に記憶しているようなのだ。
後に火事になって焼けしまった千葉の疎開先、住宅公団?の長屋は台所が土の土間、そこの真ん中の光が差し込む土間で母は浅蜊を剥いていた。
ラジオの雑音まじりの玉音放送も鳴っていた。ラジオのある2帖ほどの上がりかまちの台所に畳みが敷いてあり、いつも母の後ろ姿を見て居た私だった。
貴重な浅蜊は朝一番に浜で漁師さんに分けてもらったものだ。
佃煮にするために若い母はラジオに背を向け振り向きもしないで浅蜊を剥いて居た。
我々姉妹に食べさせる事だけが重大問題だった両親は戦争が終ろうが関係なく食糧だけを必死で確保しようと努力していたのだ。
何度も思い出す土間の光景と音・・・ラジオから流れる雑音と浅蜊の殻をバケツに投げ入れる音が混じる・・・それが終戦だった。
なぜラジオがつけてあったかは、その朝、町会から「大事な放送があるので聞くように」と長屋にお達しがあったからだ・・・
後日その話が出るたびに
「あんに凄い映画を作るハリウッド(つまりアメリカ)に勝てるわけが無いと思っていたから負けたと聞いても驚かなかった」と笑っていた。
母は女学生の頃から大の外国映画好きだったのです。
終戦後から10年、お茶の水に家を持つまでの父と母の努力は、到底マネの出来ない日本人の当時の勤勉さと努力だったと思う・・・あの時代の焼土と化した東京下町を蘇らせた力は庶民の食いしばるような忍耐だったと思う。
農作物を金品と交換しなければ、決して分けてくれない農家より、黙ってバケツに地引網の恵みを分けてくれた漁師さん達がありがたかった、忘れられないと良く口にしていました。
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