少年の心を持つ老人J.J.
映画通でジャズ通、ミステリー通で、徹底的にダンディな植草甚一さんの事なら高平哲郎さんや矢崎泰久氏がいちばん詳しいのだろう。明日、2日『新宿・Jazz・植草甚一』と題した講演と『サブカルチャー雑誌と植草甚一』という講演が紀伊国屋ホールであるらしい。
でも自慢しちゃおう!・・・私はその当時、若者に神様、と崇められていた植草甚一さんに、氏が60才にして始めて行かれたニューヨークで、お土産に購入したらしい、リグレイのガムの包装紙を印刷したビニール製のベルトを2本も頂いてしまう、という光栄に預ったのだ。当時住んでいらした経堂のアパートメントへ、仕事の依頼で、アートディレクターと一緒にお尋ねしたことがあるのだが、残念ながらその企画は氏の意図には添わなかったものらしく、その場で丁重に断られたのだ。・・かわりに、と、そのベルトをいただいた。(既に母親で大人だったにも拘らず、三つ編みお下げ髪にしていた私からきっと植草さんは、頼り無い高校卒くらいに思ったのでしょうか、孫に話すように何度も、分かる?というように振りかえり、それはそれは丁寧に対応くださったのを覚えています。)
昭和49年頃の話です。
調べたら父より4才、年上でした。
植草氏はこの対談の2から推察すると、当時60才くらいだったらしいが、お髭の老人だったのでもっと、遥かにお年を召しているように見えた。が60にして始めてニューヨークへ行かれキッチュなお土産を少年のような好奇心から沢山買い求められたそうだ。我々スタイリストには全然珍しくもないベルトだったが、明治生まれの植草さんの目に止まったベルトだもの、嬉しく無い訳がなかった。
あの戦後、いちばん最初のアメリカの匂いがジャズだ!、リグレィのガムやコカ・コーラなどと共に敗戦の日本にやってきたアメリカを象徴する数々の意匠のパッケージ!そんなグッズを山ほど買い漁ったのは、何も無い時代の郷愁から来る反動にちがいない。両手で、ありがたく押し頂いた。「宝島」に特集された、NY中、駆け回って楽しんだお土産の山の中からの一つ、選ぶ目線がとても老人とは思えない可愛いらしさだった。
アパートは書庫の部分とお住いを二つ分借りておられ、小太りの身体にダブルの濃紺の背広、ズボンの膝を折って、台所のちゃぶ台の前に窮屈そうにお座りになっておられた姿はまるで叱られる時の少年のようだった。そこは2DKで・・・かの有名な蔵書本の山は見当たりません。昔の住居は本の重さで危険になったから・・・と経堂の線路沿いのアパートメントに引っ越された直後だったと記憶している。そのアパートは、確か金属バット事件も引き起こした当時としては珍しい高層巨大マンションのはしりだった。
すべての情熱を趣味に捧げ、趣味をモノした粋人。「話の特集」の矢崎さん和田誠さん達が植草さんに執筆をお願いするようになる前のエピソードが実に楽しい。私も「話の特集」のファンだったのでセントラルアパートの編集室あたりに出没し、懐かしい思い出が沢山ある。
若き日にどんな先輩に出会うか・・・が後の生き方に重要な意味を持つと考える。何にでも興味を示し小躍りするような沢山の無邪気な老人に知友を得たので、母とも暮らせる。若い頃、どんな老人にであうか?は正しい?老人になるための近道かもしれない。
しかし、いまは60才は全然老人では無い。可愛い小物が大好きな私は植草氏の当時の年令を越えた。なんとも実に不覚であった。
感性は年をとっても不変だ、という事に気がついていなかったからだ。
追記
上に植草さんを叱られた少年のようだ・・・と記述したのには理由がある。高平さんがお話にも出されているので有名なのでしょうか?御夫人のほうが威張ってらした。
経堂のお宅へ伺った時に一番に感じた事は、奥様が全然、植草さんのお仕事を理解はしていないようで何事かをピシピシと氏を詰られる様子が、なんだか我が家の父母の日常を彷佛とさせ、どの御夫婦のありかたも大凡は似ているな!と思わず笑みを堪えたことです。