2013/10/29 火曜日

距離感という物差し

Filed under: エッセイ — patra @ 16:11:05

文化学院同窓生の為の「アーチの集い」と言う新聞を送ってもらった。字が小さいなw

世間が狭過ぎる、と言う事はあらゆる事に響いて来て、情報は文字表示を大きく出来るFBやブログに限られているのだが、この新聞を読むのも目がつらい。
後輩の建築家大橋智子さんが熱心に文化学院のためにご尽力なさって出されている同窓紙、これが2号目です。
前の1号に原稿を依頼され、それを見た後輩が私と偶然にもFBで繋がっていた水彩画家の真理さんで、彼女の母親に「知ってるのでは?」と見せた事から52年ぶりに同級生だった事が分ったという顛末を今度はその同級生だった友達が書いて下さいました。あれは確かに面白い出来事ではありました。
付属する自己発見もありました。
私って本当に遣りにくい人間、偏屈者だ!という自覚です。

無邪気で屈託のない夫々素敵なご婦人達との再会でしたが、約束の時間より早く来た彼等に違和感を覚えるのは仕方がなかったのです。
彼女達は思いもよらないのでしょうが、車椅子の人間は逆算して準備時間を決めて動きます。予定より遥かに早くの訪問は、私のトイレ時間を奪います。
それは諦めるとしても、一々非常に煩く「やれスカートが長くて車椅子に危険よ」とか「ワインの雫防止のストッパーないの?」とか「ジプロック、もっと良いのが出てるから送るわ」「茶托は要らないわよ」とか賑やか過ぎて、普段一人静かに暮らす私は唖然とするばかりです。
前輪に巻き込まれない工夫もし、懸命に生活しているわけで、一々が煩い結構きつい・・・
最も騒ぐのはたった一人の友でしたが、同級生という親しさからの愛情表現らしいのです。

お帰りになって茶碗染みのついたテーブルを撫でながら52年間も交流してなかったのは宜もないわい・・・そう思ったのは事実です。
今回の新聞には、その辺りも全く気づかない「気がせいて予定より早くお宅にお邪魔した」と屈託のない健康なる文章が書かれていました。色々あった人生でしょうが、基本はしあわせな人達なんだな〜と思いました。

文中、院長の伊作が黒板に警告書いたエピソードが出て来ます。

<クラスでバス旅行に行くことになった事があります、教室に入ると黒板いっぱいに伊作先生の手に依り『団体で旅行に行ってはいけない』と強い調子で書かれていました。
団体としてではなく、個々として行動しなさい」というメッセージであったように心に残っています>

そう書かれていました。

もちろんその解釈が正しいでしょう。良いエピソードを思い出してくれました。

伊作の教えの深いところは集団になるハシャギの中から出てくある緩み、騒々しかったり慎みなさに走ったりを含め警告したのだとおもう。、
みんなで渡れば怖く無い・・・的な・・・
海外での悪名高き農協団体の恥のまき散らしを伊作院長は予知していたのだとおもう。正に慧眼です。

団体行動が全く出来ない私には教室の黒板に書かれた警告の意味が良くわかる。団体行動ということは漏れる人間も必ず出てくるということなのだ。

クラスメートに弱者(喘息や心臓病)がいることを伊作院長は知っていたがクラスの誰も気がつぃてはいなかったという事実。

何がだいじか?の距離を計るという物差しの見方を教えてくれていたのが院長だったと思う。

そこで話を戻すと,個々でいえば素晴らしい人達でも声の大きい一人の為にそのグループの印象が悪くなるってのが団体なのだ・・・団体は責任が大きいのですw。

何で群れたがるのか不思議ねってお話です。

勝手に世間を狭くしてなさい、と言う声に  はいとしか答えられない。


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