2005/3/27 日曜日

ゆるゆる参ろう「大河」の見方

Filed under: 大河義経 — patra @ 7:50:11

ドラマを作るには時間という尺の制約が大きい壁だが、大河には、その長さと完結までの回数を49回に分けて、尚、持ちこたえさせる、という更なる制約がある。この種の仕事は映画よりも忍耐が要る。このような過酷な仕事に関わる人々は尋常では無い精神力を必要とされる。そんな仕事じゃなくて良かった!と秘かにおもってしまう私だが体力はもちろん精神力がまず1年も続かない。準備期間をいれたならば有に3年から4年は罹る仕事だが、それは脚本の出来上がる時間に大方費やされる。原稿が仕上がったらダメ出し、たっぷりと余裕をもって設定してもどんどん持ち時間が無くなり・・・と黛氏の本を読んでも大変な仕事だ、と実感する。役者は、脚本を渡されてより本番までほとんど一発勝負だろう。ロケとなると、現場で必要なカットを多分衣装だけ替えて、集中的に前後の脈絡なく撮り溜めをする事も有るはずだから、繋がらないイメージを想像力という演技で補うのだ。情熱のみが支えだろう・・と嘆息するが、大事な長丁場を芝居にだけ専念するわけでもなく売れている時に売ってしまおう、の芸能事務所の対応を何時もどうかとおもうが、それやこれや乗り越えられる人間だけが生き残れる世界なのだろう。

実は私は今まで大河ドラマをほとんど見るチャンスが無かったのだが、どうもある見方が存在するように思えてきた。つまりあまり真面目に見るな・・・と。
誤解を畏れずに言うとこれは娯楽番組であって、お茶の間の友・・・なんだ!と言うことだ。
きっちり正座して前のめりに観てはいけないように思った。史実じゃない!と言う声も大きい。見ても聞いてもいない歴史上の人物の会話をドラマとしてコネあげるのだからほとんどがフィクションに決まっている。

これはあくまでも娯楽なのであって、”その時歴史が動いた”・・・では無い。

あらゆる視聴者層を想定し、原作を選び、当然のごとく視聴率を視野にいれた役者を揃え、万全を期して臨んでも滑る回もある。大事な事は視聴者みなの知っている知識をあらゆる意味で刺激する事が目的なんだろう。喧々諤々と議論が勃発したり、様々な個人的興味からどんな見方も自由にできる出入り自由なサークルドラマ、又は昔流行したリーダースダイジェストのような、大凡にして分かりやすい粗筋で、研究したい人間はそこから次ぎのステップにドアを開けばいい。これは凄いことかもしれないぞ。永年の大河ドラマ作りから会得した製作サイドの知恵ではあるまいか。不特定多数の誰でもないターゲット誰をも取りこぼさない描きかた・・・生温き中途半端。
あえて画面に、これでもか、と隙を作るのだから。

と言うのも先週10話の鹿狩りの時に藤原の秀衛の嫡男が自分の領地の山奥で行方知れずになる、又それを土地勘もない義経が独り探しに行くシチュエ−ションに

『ありえない!いくら何でも架空の人物のうつぼの奥州入りの唐突さや、奥州育ちの嫡男泰衡の狩場での行方不明など、まったくドラマになっっていない。
そこにハムレットのような義経が、地形も分からないのに嵐をついて探しに行くという荒唐無稽の極みのようなシナリオはとてもプロの技とは言い難い!』

と激しく批判の声が挙がったが・・・うむ?

11話で、一応その謎が解けた。無事に救出したのにも拘わらず、無謀を咎められるシーンで義経さんがいかに天才で他者とは違う物の見方をし、行動するか!を一気に解きあかす台詞がちゃんと用意されていた。ただ活舌の悪さ、演出の温さで見る側に伝わらないのだ。(もちろんフィクションであるから、もっと大胆にして巧妙な台詞にすべきだが)武者として、の天命を試してみたかった・・・とか人へ(秀衛の心中を察する)の洞察力などを表現するために、あの無謀、荒唐無稽が必要だったわけだ。シナリオライターの、これでも創意工夫した部分だろう。脇道と思えるようなエピソードを列ねながら次ぎの回で落とし込み、結論づける方法論を大河が選択した結果だ。だから視聴者は適当にわき見しながら、ながらで見て丁度良いのだろうと考える。次ぎの週に繋ぐ作り方なのだから2回に1回は結論が出ない余白なのだ・・・とみた。毎回息をつめるような完成度はまずもって無理。それは映画の作り方であって1本で完結するストーリ展開にかぎる。大河はいかに次へつなげるかが目的なのだろう。

>秀衡の母は、安倍宗任の娘で、京都育ちの教養人である。
秀衛役の高橋秀樹がのしのし歩くのは下品だ!。
とも・・

行方不明の嫡男の安否に、いくらおっとりした教養人でもあのように鼻息が荒くもなろう。心情の突き上げるような不安を、あの短い廊下のシーンで、物の何秒かで表現するのに他にどうせい?と、恐らくは役者が勝手に解釈する演技にダメ出しをしない演出。

11話の「何故に無謀な事を!」と義経に詰問する秀衛に「本心から自分の子を見捨てる親がありましょうや・・・」と言う答えが、ここに辛うじて生きてくる。

屋敷や刀を褒美に取らす時に、受け取って良いものか、躊躇する義経さんに優しく頷く婦人のショットが挿入されていたが、慎ましやかで優しい目線にも秀衛が母にも酷似した、たおやかな女性を娶っていると想定しているのが窺える、そのへんの史実は確実に押さえながらも、想像力の台詞で繋いでいくしかないドラマ、哲学者じゃない脚本家の台詞、ここまでボロクソに言われてしまう職業とは何とストレスなものよ。シナリオや監督、製作、役者などに就く勇気ある人々へ『めげるな』と私は言いたい。育てる見方もあってしかるべし。去年の大河、新選組も辛抱しつつ見ているうちに「納得」の香取扮する近藤勇が出来上がったではないか。

どんな見方も自由だが、「台詞」に込める創作の心もちったぁ聞き取ってあげて欲しいもんだが。この先清盛が鬼になる瞬間も解きあかされるだろうけど、きっとたったの一言だろうから、耳を澄まして・・・。役者さんの目の演技に点数を付けては極楽トンボに大河を楽しむ隠居ですが一言、ハムレット、おおいに結構。

仮に天才、狂気、な義経さんばかりがクローズアップならばお茶の間には要らない。狂気なんかもう、うんざりだ。現代に通じるものは「愛」
家族愛に殉じつつ引くに引けなくなった苦しみの義経さんこそが見たいものだが。


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