1945年8月9日11時02分
長崎に原爆が落ちた日・・・広島からたった3日後だ。そしてついに15日の終戦を迎えることになる。「原爆の日の写真」で有名な畑山庸介氏のおにぎりを持った防空頭巾の坊やの眼差しも忘れられない。
その前年、私は2歳、1944年3月10日に東京、大空襲、浅草を焼けだされて流転の末、日光の山奥へ疎開をしていた。
東京人は伝手がないと田舎へ疎開もままならず、あらゆる縁故をたどって家族を疎開させたのだ。選り好みなどできる状況ではなかった。
きれいな空気、緑、豊富な食料、若い私の両親はこの日光の陽ざしを楽しんだ。戦争の実感が彼等にはまだ遠かったのだろう。
ところが想像以上に日光の冬は恐ろしい厳しさだった。とても東京っ子の身体がもたない、意気地なく逆戻り、そして住宅公団の都営住宅が当たり船橋に落ち着いて半年目の夏を海辺で迎えていた。曲がりなりにも1軒家だ。私は転んでばかりいる発育不良の3歳になっていた。
お握りの坊やと丁度おなじ年令に戦争が終わったのだ。
我が家の戦争は終戦から始まった。なぜならその年の秋、母が不注意から禁止されていた電気コンロを使い火事を出してしまったのだ。
1945年10月2日午後4時過ぎ・・・に本当に裸一貫になった父母の奮闘がはじまった。
意外にも、民主化に目覚めた警察は非常に丁寧で母の不注意も一切のお咎めなしで無罪放免だった。それは敗戦のショックで国中が「みょ〜な連帯感」に包まれていた時代の賜物だったのか。一晩留められた取り調べにも、憲兵から警察官に名前が変わっただけ、それ以上の気配りで同一人物か?と疑うほどの対応だった・・・と母は未だに不思議がる。
私は、泥の水田に落ちた馬を畦道から男達が必死で助け起こそうとしていた姿を鮮明に覚えている。同じ敗戦の夏だった。