舛岡君はガキ大将のまま大人になった人
美術デザイナーの舛岡秀樹は弟分のような存在だった。
元夫の美術家・市田喜一の弟子になって家にやって来たのが18歳だった。
のちに師匠を上回る大物美術デザイナーになるとは想像してなかったが、とにかく良く働く子だった。
一人で5人分のアシストをこなしてもケロリとする頑丈な体力があった。
右肩上がりの時代と人懐っこさで、仕事量が増え、あっという間に時代の寵児になっていきました。
仕事の発想も大胆で行動力も早いので凄い量の仕事をこなし、お金儲けも上手だったわね。
憎めない愛嬌があり、失敗があつても、すり抜ける世渡り上手だったので
「凄いやつだな〜」と内心舌を巻いていました。
それが晩年大酒が祟り糖尿になり、病気も山ほど抱えていたらしいのに、たまに電話がかかってくるときはいつも元気な声だったので、
余程丈夫なんだな〜と思っていたのに、去年、12月11日に70歳になってすぐかな?急死した知らせがありました。
呆気なく・・・しかも患っていた病気じゃなく痰が詰まっての窒息死だったそうです。
やりたい事をやりたいだけ生きた人の死は呆気ない。
「あれ?俺なんでここにいるの?」
天国の階段を登りながら自分の死を一番、訝ったのは当人だったと思う。
コロナ禍で1年も延期になっていた偲ぶ会もやっと本日10月2日、青山スタジオで献花として開かれるらしいが、パリの息子も私も行くことができないのがとても残念です。
「来なくて良いよ」と一番に言ってくれるのも、我々の事情を良く知ってる舛岡君だと思う。
若く元気な時のポラロイド写真が唐突に出てきたので、ここに冥福を祈りながら・・・「ヤンチャで元気だったね〜」と
懐かしみを込めて載せておきます。
とても温かい人柄だったと記憶しています。