2012/4/1 日曜日

表参道のヤッコさん

伝説のスタイリストヤッコさんは1941年生まれで私は1942年、ほぼ同年代でヤッコさんに遅れる事、数年後にCMスタイリストになっています。が仕事の絶頂期に引き換えのように、息子が10歳で交通事故にあい、看病と仕事の苦しい時代でもありましたから,仕事が終わると明治屋で食糧を買い込み一直線に自宅や病院へと帰る日々で、あまり思い出したくないのでお世話になったヤッコさんの「本」もスルーしてました。

ところが,最近になってFBでヤッコさんが「パトラさんの事も書いたわよ」と驚く発言でした。
まさか伝説の人、ヤッコさんの本に登場しているなんて夢にもおもいませんでした。
友人も誰もその事は触れてなかったのです。ちょっと心が動いて早速取り寄せて読んでみました。

内容は、あぁ、ヤッコさんにはそう写っていたのだな〜と、当時の自分が数行でも表現されていて面白かった。
書かれる側は些細な違いが気になるものですね。私はひらがなで「いちだ ぱとら」で「パトラ」だった事は無いのですが・・・ヤッコさんの中では市田パトラだったようです。

「スタジオヒロキ」に続く「君の名は」(松竹撮影所)に記載されています。

初めてヤッコさんんとお会いしたのは東宝ではなく東宝に近い大蔵スタジオ(新東宝跡地)で当時住んで居た我が家から歩いて行けた距離でした。
ヤッコさんの本に書かれているカメラマンの林宏樹さんは我々元夫婦にも大恩人で、とにかくあらゆる意味で私達をヘルプしてくださった方でした。

「見学に来たパトラさん」
とヤッコさんは表現していますが私はビッグコミックという漫画雑誌に見開きのページを頂いていて、イラストインタビューのシリーズでCMの世界を取財しようと林宏樹さんに相談したのです。

「丁度セーラー万年筆のCMが君の家の側の大蔵スタジオであるから、宇野亜紀良さん、五郎ちゃん、高橋靖子さんというメンバーだから、それを取材したら?スポンサーにも話しておくよ」という言葉に喜んで未だ産まれて1年半ぐらいの息子を当時の夫、市田喜一氏に預けてスタジオへ訪問したのです。
興味深くあれこれと質問したのは実は取材でした。
「好奇心に満ちた目をしていた」という,強い印象を持たれても仕方がなかったと思います。
夫殿は,家で子守りでしたから其のスタジオにはいない筈ですが(笑)
午后まで取材したいので此処に居たいと電話をすると明らかに不機嫌な夫殿の声なので早々に失礼して帰宅してしまったのです。中途半端な、やるせない気持ちでいっぱいでした。

ヤッコさんは箱一杯の綺麗な小花の造花をハサミで切って花びらの準備をしてらして、こんな綺麗な花びらをご自分で作るのですか?とスタイリストという才能に目を丸くする私に笑いながら「まさか!これは 平田先生の所で作っていただいたのよ」と優しく答えてくださった。

私がスタイリストになったきっかけは林宏樹さんが貧乏所帯の我が夫婦の元に遊びにくるたびに「君はスタイリストに向いている!日本に広告スタイリストが居ないから是非やるように」と何度も言ってらしたからですが、スタイリストの技術など全く知ら無い自分に、まず無理だろうと興味がありませんでした。
でも時代は女性が主婦と子育だけではいけないような風潮がどんどん広がっていましたので、イラストの賞を頂いた縁で雑誌に記事など書いてました。

ヤッコさんのお仕事を大蔵スタジオで拝見し餅屋は餅屋、その分野のプロに任せる部分を使ってもいいのか!?と帽子の平田先生のお花が,惜しげもなく切られるのを見て「なるほど、ぜいたくな仕事であるな」と初めて興味を持ったのは事実です。

東宝映画の衣装を3本程やりチャンスがあって林さんのスタジオで助手、そこで広告のノウハウをしっかりと叩き込まれ、ぼんやりとしたお嫁さんだった私はアっというまにCM業界で,生意気なスタイリストになったのでした。
中村のんちゃんに逢ったのも47年か8年、私の若いアシスタント多田えつこさんの同級生だったからですが、のんちゃんもヤッコさんの助手になっていた頃なのでしょう。
可愛いほっぺが気に入って國房塊先生のCM名菓「ひよこ」のモデルにもなってもらいました。

ヤッコさんのアパートは右に曲がり、私の小さい事務所はもっと青山寄りでした。
帰る道が同じなのでポコポコと靴音がするので振り向くとヤッコさんが机を抱えて歩いてきたり、表参道のアチコチで歩くのが遅い私は良く追い越されました。
ヤッコさんの所へ応募して不採用になってしまった助手希望者を私へ推薦し回してくださった事再三で、とても御世話になっているのに,私は息子の事故後、彼の看病と我が家の再生のために殆どの時間を使い、青山を引き上げ表参道の住人ではなくなりました。

「パトラさんは休憩時間なのに高いセットのてっぺんに座っていた・・・」

そうなのです、が、腰を痛めた訳ではなく筋肉の障害である足をもう隠しようが無いところまで来ていたのですね。才能のある若い後輩が沢山出て、脚の悪いスタイリストなんて通用する世界では無くなっていました。早々に体力と才能に見切りをつけて52歳で引退したのです。
記憶が確かならば、スタジオに訪ねてきたヤッコさんも、その時、足を怪我していたようでした。
よじ登っていらして二人並んで話していた撮影現場は大映スタジオでした。賠償美津子さんの大正製薬のCMです。賠償さんは「よ、CM界のゴルバチョフとエリチン!」等と下から囃してましたっけ・・・
それから5年後くらいには力尽きて引退したのです。
長く続けておられる体力、気力ともヤッコさんはやっぱり選ばれた伝説の人。拍手を惜しまない私です。
出て来る人々、場所、エピソードのほとんどを知っているこの本に同じ時代に居た者として記憶に留めてくださったのはとても光栄でした。私も頑張っていたという何よりの証拠ですから。書いて下さった事に感謝します。


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