思いがけないエッセイ
先日友人が遊びに見え,お帰りに成ったあと、私の字でお名前のメモが机に残っていました。「しじみよこ」とひらがなで・・・
あれれ、どういう経緯でメモしたのかはさっぱり思い出せません。
この頃は検索で出てみえる方が多いので調べると連句の名手で編集者の志治美世子さん、友人と同郷の郡上八幡出身の作家さんでした。
刻が逝き過ぎてもというエッセイがあったので、題名に惹かれて読んでみました。偶然にも田原節子さんの思いででした。
3年前の骨折入院中に田原節子さんの闘病記も、ご主人の田原総一郎さんと節子さんとの出会いを書いた本も読んでいたので全部が心に染みました。
一つだけ、思うことがありました。
健常者と我々車椅子生活者では理解出来得ない感覚があることが、ぽつりと呟かれた節子さんの一言から感じ取れた事です。
「かわりものなのよ」とご自身は節子さんに紹介された、ということですが・・・
それはご本人も語っておられるように言葉通りの意味ではない、友情と出会いの偶然性の中にも「まったくちがうもの」の存在を認められてのことばだったと思ったこと・・
それは私が車椅子になってみて、はじめて良く理解出来た感覚です。
当事者でなければ味わえないある種のズレが醸し出す、それでいて暖かさ、せつなさが滲み出る興味深いエッセイでした。
俵萌子さんとお見舞いにいらしたおり、枕元で喋るお二人に田原節子さんが「喧しい」とおっしゃる件・・・
今は亡き母に、枕元でしきりに声をかけ,名前を呼ぶ私に「うるさい!」と一言呟いたことと重なり笑いました。
我々は当事者にならなければ何一つ本当の所、理解し得ないことが在るものなのだと思った次第です。
そうか、今際の際にみだりに声かけは煩かったり、やかましいものだったりするのですね!とか・・・