夏(15歳のときの文)

 あまり暑いので僕はシャツをズボンからひき出し、胸もとをおしあけた。
風を通すために縁側に出てみる。
頭の少し上に何年もつるされっぱなしの様な風鈴がかすかにゆれている。
僕のほかに泊まり客は居ない。
さっき着いた時、思っていたよりなおさびれた宿だったので驚いてしまった。
目がくらむほどに太陽は白い光でいっぱいだったし高く昇っていた。
そして魚くさいこの小さな港町を暑さと太陽の白い光とでもえつくしそうにみえた。
「・・・お風呂がありますけど・・・」ふり返った僕の瞳に、少しの間赤と青の輪がおどって、その影からそっと小柄な女中が愛想よく笑っているのが見えた。
「暗くってしばらくボーッとしちゃった。」笑いながら座敷にもどると、素足に畳がベタッとくっついて気持が悪かった。
脇の下も汗でぬれていた。
「いかがしましょうか。」と、中年の女中は語尾にアクセントのある声でもう一度尋ねた。
「うん、もらおう。」
障子のそばに置いたトランクを開けると、「手ぬぐい、母さん入れてくれたかな。」わかっていたのにフッと思ってしまった。
ていねいにたゝまれたシャツの下に、真新しいタオルが洗面道具を巻いて入っている。
ギシギシする階段を降りて廊下に出ると、上の部屋よりももっと暗く、独特なニオイがしている。
家の納戸とおなじやつだと思う。
そうだ、あんなふうにカビくさいやつなんだ。
「ごゆっくり」女中の声を後に、ガラガラと戸をしめる。
オソロシク大きな音がした。

 フツフツ湯気がたつ中へソロソロ手をつっこむとやっぱり熱かった。
水道をひねると、ザァーッと又、大きな音をたてて湯つぼに落ち込む。
「何だ!大きな音ばかりたてやがんなー」僕は大きな音が急にすると、驚いてしまう性格(タチ)だったから、水道もすぐとめてしまった。
まだあつい。
足の指がジンジンして来たので飛び出してしまう。
せみの声が少しもしていない。
七月だっていうのに何故せみが鳴いていないのかが不思議だった。
僕の使うシャボンの音がするだけで本当に静かである。
東京を離れて一夏、一人で思う存分絵が画けると思うと期待で胸がドキドキした。
波の絵を一ぱい画こう!顔を上気させて、部屋にもどるとトランクの上にゴワゴワにノリでかためたユカタが置いてあった。
指でさわってみると、カサッと音がするほどカタいので着るのはよした。
多分首がすりきれそうだったからである。
晩飯まで間があったし波の音が聞きたくなったので、「金子屋」と焼印の押してある宿の下駄をつっかけて、トコトコ海岸につゞく坂道を下りてみた。
細いタケの両がわに植わった道をおりるとすぐ目の下が砂浜と海だった。
七月の始め、休日でないので土地の黒い子供達がワメきながら走り回っているだけで、波が気持のよい程跳ねあがってのびのびと突○○○○桟橋をたゝいている。
漁の終った小舟が三そう浜にあげられて、真白な砂の上に黒く影を落としていた。
ウエルカムと英語で書いてある汽船場に近ずいてサクを越え中に入ってみる。
コンクリートが下駄の上でカタカタと鳴る足元をみていると、白い桟橋と太陽の白さとで目がくらみそうだった。
五時をまわっているはずだったが、海と空をのこしては海岸全部がギラギラとした白い太陽の光の中で明るく燃え、砂浜をかけまわる子供のシルエットだけが、黒く長く踊っていて美しかった。
沖に向ってつき出た桟橋の途中にブロック(石)がつんであった。
ヒタイの汗を手のひらでこすりながらそのブロックへ歩いて行くと、白と青の僕の視野の中にフワッと一つのシルエットが浮んでユラッと動いた。
目をひらいてみると白いブラウスと青いスカートの女の子だった。
僕は驚くほどの早さで少女を観察してみた。
前にたらした髪が汗でヒタイにはりついていたし、ホホは赤くユゲが今にもたちそうなようすをしてひどく熱っぽい目をしていた。
熱さにうだってしまったらしい。
少女は手に持っていたクシャッとした麦わら帽子をかぶりながらチョッと僕をみた。
ゆっくりひもをかけ終えると、「私、暑くって。あのブロックの下は、チットも日よけにならないわ。」としゃべったので、僕は少女がくちをきくなどとは思ってもみなかったからすっかりまごついてしまった。
「私船を待っているの。もう着くのだけど、五十分にはかならずよ。」
時計は僕の腕の上でコチコチと五十分を指していた。
「五十分だ。」
僕が云うと、少女は背のびしてブロックの先の沖をみた。
黒い点が僕にもみえた。
少女は「来た来た」と嬉しそうな声をあげてオーイと呼んだので、その声の大きいのに僕は二度びっくりしてしまった。
「君は絵をかく人の様だね。」
僕はそんな気がフッとしたので少女の背中に向けて云うと、ふりかえった少女は不思議そうに何故だときいた。
「・・・目がうるんでいて絵を画く人の様だ。」
と答えると、笑いだしてしまった。
僕はたいした間違いでも言ったのだろうか。
「私、絵なんか描かないわ。それに・・・それに、目が疲れたから、さっき眼医者さんに行って薬さしたのだもの。うるんでいるのはそのせいよ。」と云って又笑った。
何と僕の間がぬけていた事だろう。
自分でおかしくなって一緒になって笑ってしまった。
船がだんだん近ずいて来た。
菊丸。
白い船体の横にそう書いてあった。
「船もかこう、そして君も。」
僕が一人言の様に云うと少女は「絵をかくの?」
ヘエーと僕の頭から足の下まで見下ろしてクスンと笑った。
笑うことの好きな人だと思ったが少しも不愉快でなかった。
「絵は私も好きだけど、人にかいてもらった事なんかないわ。本当に描いてくれる?貴方は画家みたいでないから、きっとうまいかもしれないわ。」
と一いきにしゃべって、本当に描いてと言いながら桟橋にくぎづけになった菊丸の方に飛んでいってしまった。
僕はヒタイの汗を又、手のひらでぬぐいながら、少女の背中に向って何度もうなづいた。
「貴方は画家みたいでないから、きっとうまいかもしれないわ。」
宿に帰る道、ずっと少女のこの言葉が耳から離れなかった。
宿に着くと、そこの番頭らしい老人が「金子屋」と書いたハタを手にして出て行った。
「オヤ、お帰りなさいまし。御食事できておりますよ。」
と、前かけで手をふきながら女中が出て来た。
「船が着いたんで、お客さんが今夜からドッとたてこみます。少々にぎやかになりますのですがよろしいでしょうか」
とも聞いた。
「僕ァ、チットモかまわないです。宿では絵を書かないし、うるさくったって平気ですよ。」
何だか自分の言っている言葉がおかしく聞こえた。
二時間前まであんなに静かな所に一人で座って、絵を画いていたがっていたのに、「うるさくったって平気ですよ。」などと云っているからだ。
僕の耳に、さっきの少女の明かるい大きな笑い声がよみがえって来た。
「貴方は画家みたいでないから、きっとうまいかもしれないわ。」・・・と・・・。そして休み中にうんと良い絵が画けそうな気がした。
 
 明日もあの時分桟橋にいってみよう。
おぜんの前にすわりなから僕はそう考えた。


Retour