たまご愛

松林の中は薄暗く遠く海鳴りの音がするだけで、ひと気がなかった。
母は袂からむいた茹で卵を取り出すと私の口元に押し付けてから言った。
「早くたべなさい」「ほら誰かに見られないうちにね」
潮風が松林の中にも吹いてきて母の袂やショ−ルがぱたぱたと音をたてて揺れた。
風のせいで口の中に髪の毛が入り込むのを手で払うようにしながら慌てて食べる茹で玉子は味がしない。
その間母はあたりを見回しながら「早く早く」と急かした。

昭和24年の春、親元を離れて臨海学校という寄宿舎に入れられた私は、7歳のボンヤリとした覇気のない子供だった。
自分が何故規律の厳しい集団生活を送らなければならないのかも理解できないうえにホームシックになる知恵さえ持たなかった。 情報のない時代の子は言葉の表現力も理解力も乏しかったから親に言われるまま、なす術もなく集団生活の中で疎外感と無力感に苛まれながら流されるように生きるしかない。
富士山の裾野、明日高山を背に前は千本松で有名な松林が延々と続く海岸沿いに学園は建っていた。広大な敷地に10棟の寮と学校、食堂、風呂場などの設備が整い先生の宿舎も隣接していたが、海の側のせいか・・・一年中強い風ばかりが吹いていた。
粗末としか言い様のない食事を除けば混乱した東京より豊かな環境だったと思う。広い園内にはカンナや松葉ボタンが植えられ、クラシック音楽の音色と共に目覚める朝、童話の朗読と共に就寝する夜、行進しながら運動場へ出てする乾布摩擦は軍隊式に、嵐の翌朝は海岸に打ち上げられた小魚を全員がバケツに拾い集め味噌汁の具にする等、今思うとチグハグだがある熱意が教師達にはあった。 小学2年から中学2年までの150人の集団生活は細かい規律がきちんと守られて成り立っていた。
月1回の面会日に東京から電車に乗って沼津まで逢いに来る親達はまだ少なかった。敗戦から自力で立ち上がるために大人達は、病弱な子を率先して施設に入れたのだ。 GHQの指導と文部省の方針もあったのだろう。
潮風と乾布摩擦が健康に良いと頑に信じられていた時代、親達は何も疑わず決められた僅かな仕送りをし安心してわが子を学園にまかせていた。
面会に来る親は規則で禁じられているにも拘わらず、コッソリとその日のために用意した茹で卵やキャラメルを、散歩と証して連れ出したわが子の口に無理やり押し込むのだ。まるでそうする事が免罪符でもあるかのように。
親が面会に来ない子がほとんどだ、公正を期すためと万一お腹を壊す子が出てはと、厳しく禁止されていた。事前に親元へガリバン刷りの注意が配られても一向に効き目がなかった。

食べさせられる子供は嬉しいという感情より規律を破る恐ろしさに震えて頑に拒否するのだが、親が辺りを窺いながら「いいから、大丈夫だから、ほら」と目の前に差し出す学園では決してお目にかかれない類いの食べ物の誘惑にコロリと負けるのである。
闇市で調達された横文字のチョコレートを食べて鼻血を出した子さえいた。
丸ごと1個の茹で卵が貴重だったなんて今の子は想像できないだろうが、麦やらヒエ入りのドンブリ飯が常食なので熱を出すと食べられる雪のようなお粥が生徒達の憧れなのだ。熱い視線をその幸運な子の茶碗に注ぎ唾を呑み込んでは皆、心から熱を出したいと願う、そんな時代だった。

松林の卵は喉につまったうえに常に味がしなかった、味を感じることが出来ないのだ。
普段食べているおやつはサツマ芋かビスケットがたった2枚の繰返し。その2枚のビスケットをどうやって食べるか?というと誰ともなく一緒に出される番茶に浸しふやかして食べるのである。ちょっとでも量を増やそうという子供達の涙ぐましい努力。
そんな子供達が先生達からお約束の大切さ、嘘をつかない等の教えを厳しく仕込まれているのに簡単に破ってホッペがキュンと痛くなる物を口に入れてしまった。いったい自分は罪を食べているのじゃないか?友達が先生に密告するのじゃないか?
そんな不安のほうが大きいからなにがなんだか呑み込むのが精一杯。
するとだんだん暗い顔で面会日に臨むようになる。
逢いたいはずの親が重く、限りなく遠い人にみえるのだ。そうして幼い心は少しずつ傷ついていく。

今思えば親にとっては、せかされて呑み込む太巻きや茹で卵に目を白黒させているわが子の苦しみなんか目に入るはずもなく、食べさせるという行為と調達できた自己満足で笑みをもらすのだから喜劇的。
何週間も食べずに切符代を工面し我慢して持ってきた貴重な茹で卵が、娘の心を傷つけているなどと母親は夢にも想像出来ないのである。喉に詰まるなら、と牛乳まで隠し持ってくるに至った。

昭和26年になると東京電力が発足し三越デパートにルビーを嵌め込まれた天女の像が飾られ、エスカレーターが初めて導入されて東京は完全に戦争の痛手から立ち直ったようにみえた。美空ひばりが少女スターだった。
4年生の2学期から東京に呼び戻された私は東京駅で初めてルノーのタクシーに乗せてもらい、1メーター¥60円也がハネ上がる度に首を縮めた。お父さんはもしかしてお金持ちになったのか!?期待に心が弾む。

タクシーを降り父が「家だよ」と指さす方向には大きい犬小屋が立っていてその横に黒い塀の2階屋があった。
思ったより立派なのでとても嬉しくて出来ないスキップをしたい気分だった。
ところが父の入っていった先は道の向こうから犬小屋だと思った3部屋ばかりの小さな平家の方だった。学園から戻った目にはあまりにも小さい小さい小屋だった。涙で一言も喋れないほど心が動揺した。
黒塀の2階屋は旅館だったのだ。旅館と比較されて父も困ったであろうに、子供の基準は残酷にも常に大きいか小さいかなのだ。
父の涙ぐましい努力で手に入れた土地は当時、精神病棟に面していたので格安だったのである。 父母39歳と33歳の夏、天晴れ自力で土地と家を手にいれたのだ。終戦から僅か7年目にして。祖母に預けられていた姉も呼び戻され4人一緒にお茶の水の住人となった年である。

「そういえばさ〜聞きたいことがあるんだけど」
或日、息子が唐突に
「僕が子供の頃さ、枕元にお目覚ざ(おめざ)があったよね〜友達に聞いても誰もそんな習慣無かったっていうしさ、なんでいつもおめざを置いてくれてたの・・・?」
と質問された。
突然私は松林の潮風に記憶が逆行していった、愛なのだ、あれも理不尽な愛だった。
極端な拒食症に陥った5年生以降の私は母親の食事を嫌い毎朝不機嫌な表情をみせる厄介な子に育っていた。両親に何故かなつけなかった。
忘れていた記憶が息子の「おめざ」質問で呼び起こされた時、突然母も私をひどく愛してくれていたことに胸が潰れた。私同様に未熟だっただけの母。
「毎朝楽しみだったけど、一度、朝起きてバナナが黒くなってる時、スッゴク悲しかったの覚えてるんだけどさ。変わった子育てだよね?」と息子が言葉をつづけた。
「うん、毎朝ね、機嫌よ〜く起きてもらいたかったのよ、とにかく。それとね、愛されているって感じてもらいたかったんだと思う」私は答えた。
「ふ〜ん、確かに、おかげさんで寝起きはいいよね、俺!」

2歳から6歳くらいまで毎日枕元にバナナやプリン、時にはカステラ等を置いて、目が醒めたら一番に食べられるように工夫するのが私の習慣だった。
自分の子供を持つ事となった時、私は漠然とだが知ってほしかったのだ。言葉にならない愛をどれだけ坊やに持っているかを。抱き上げたり一緒に運動出来ない穴埋めに愛を伝えたかった。私と違って機嫌よく目覚めてほしかった。楽しい一日の始まりであってほしかった。私は万感の思いで毎晩息子の枕元に明日着る服とともにお目覚ざを用意していたのだ。

人は親になるのは誰でも初体験なのだ。どんな親でも完全というわけにはいかない、なにしろ親になるのは初めてなのだから。だったら子は親を許そう。
そして大人は?といえば誰でも一度は子供だったのだから、いつでも子供の心を思い出せるような柔軟な心を忘れないでいればきっとうまくいく、なにもかも。

私の耳には風に煽られてパタパタ鳴る袂や裾を気にしながらも、さくさくと松林の砂地を歩く母の下駄の音が鮮烈に蘇った、何十年も封印してきたのが嘘のように。


Retour