あざみとひまわりの間

私がまだ元 (もと) 夫と恋人だった頃、ひとつだけ思い出深いプレゼントを彼がしてくれていた。
それは指輪とかそうゆう品物ではなく、作家城夏子さんの家に連れていってくれたことだ。
晩年の城夏子さんは68歳くらいで持ち家を処分し、有料老人ホ−ムにさっさと入ってそこから元気な老いのレポートを発表していた。
抱腹絶倒なエピソードを綴った本は老いることへの不安をちょっとだけ和らげてくれる先駆けの人だ。

戦争中、城さんは肺病の夫と共に埼玉の秩父村へ疎開をしていてる。村の長だった夫の祖父がなにかと面倒を見たことに恩義を感じていたらしい。後年美術大学に通うようになった夫は、祖父の死後も成長した姿を時々見せに行っていたようだ。

その頃の城さんは看病の甲斐もなく画家だった御主人を亡くされ西武沿線上の小さい駅から歩いて僅か、バラのアーチと白い柵が当時 (昭和36年) としてはお洒落な小さい木造住宅の一軒家に一人で住んでおられた。戦後病身の御主人を少女小説1本で支えていたそうである。

お土産にアザミの紫の花を買って行く、なぜ連れていかれたのかは思い出せない・・・恋人ができたら紹介してね、とかねがね言われていたのだろう。
私の母より年上の人とどのような会話を交わせばよいのか、実のところちょと気が重かった。
20歳の世間知らずな小娘だった私の前に現れた城さんは「夏子さん」と親しみをこめて呼ばれているとうりの人柄、おきゃんで陽気な、老女とはまだとても呼べない若々しい小柄な婦人だった。

黒地に紅型の蝶ちょの着物は当時では娘さんの着るような小紋だが案外似合っていて、黄色の半幅帯びを矢の口に締め、御当人の性格を上手に表現していて印象的。60近い人でお化粧している人も珍しい時代に浮き世離れした姿は作家そのものだった。
度のきついメガネの奥に笑っている瞳をみつけてホッとしながらアザミを差し出すと「紫は大好き」と歌うように言ってくるりと一回転してみせた。
そんな感情表現をする人は見たことがなかったのであっけにとられ!、でも喜んでくれて嬉しかった。
板張りの洋風の住まいは女らしくて綺麗にまとめられて物珍しく、目に飛び込んだのは壁にかかったベートーべンのようなデスマスクと新進の堀文子の少女の水彩画。(まだ無名だった)
「それが御主人だよ」眺めていると彼が教えてくれた。
夏子さんは「ケーキには日本茶」歌うようにいいながら運んできてくださり、いかにデスマスクを通夜の日に採ったか話してくださった。
御主人の身内が来ると煩いので大慌てで友人達が取ったそうだ。
「毎晩見てて怖くないですか?」愛について無知な私はそんな言葉を口にした。
とんでもない、というように目の前で手を振りながら夏子さんは何か喋っていたが緊張してぼうっとした私の耳には「だって命ですもの・・・わたくしの」以外聞き取れなかった。

唐突にこんなことを思い出したのは、つい最近若い友人の詩人が恋人をつれて現れたからだ。
はにかむように詩人の後ろから現れた少女はかつての私と同じ表情をしていた。
私が夏子さんの所へつれてゆかれたとき、夏子さんはこんなわくわくした気持ちで待っていてくれたのだな、ふと涙ぐむような気持ちでいる自分に気がついた。しかも夏子さんと同じ年令になっている自分。

滑稽なくらいはしゃいで、大事なマイセンのデミタスカップを袖で隠して「女の子だけに見せてあげるわね」なんて・・
「紅茶にはあられせんべ〜♪」そんな口上付きのおもてなし。夏子さんの流儀は意外やしっかり受け継いでいる。

城夏子さんにお会いしたのはその一回だけであった。

83歳くらいまでは千葉県流山の老人ホ−ムを舞台に傑作な本を出され、元気らしいのでそのうちお訪ねしようと母と話しているうち時が過ぎた。
瀬戸内寂聴さんがホームをお訪ねになった記事が記憶の最後の最後だった。
数年前、新聞のコラムに小さく既に亡くなられていて茫然とした、という記事が載っていた。なんでもそこの園長の話では90歳で静かに世を去られたそうで、どこへも知らせないというのが故人の意志だったそうだ。
安否を訪ねる電話をかけたその記者がいなければ城夏子さんの死は今も伏せられたままだったであろう。
なんかそんな幕引きもしっかり受け継ぎそうな予感がする。
詩人が恋人を「ぜひ会ってネ・・・」
そう言って連れてこなければすっかり忘れていたことだ。
「なんだかわけがわかんなかったけど、御馳走ぜめにあって、昔は美人だったのよ、と煩く騒ぐ変なおばさんちへ行ったな〜」なんて、思い出すんだろうか彼女さんも・・・
意義があるのか無いのか知らないがそんな積み重ねばかりの日々で私が在る。

夏子さんはきっとあの日次世代の私達とお茶をしながら自分の老い行く先をしっかり見つめていて、比較する若さがほしかったのだ。あの日から10年ほどで老人ホームへ入られたのはいかにも早すぎた。当人は愛する夫のデスマスクを取った日よりずっとこころに決めていたのだろうが90歳で独り死んでいかれた。
どのみちどんなに愛していても一緒には死ねない、デスマスクとともに煙りとなるだけだ、そう思ったら、あの時連れていってくれた夫と別々に生きてきてしまった自分の人生も、どうこういいわけしても独りで死ぬ人生にかわりないのだ、と実感をあらたにした。

若い恋人たちに、ひまわりをいただいてもクルリと一回転も出来ず、あろうことか「チューリップを頂いたの」と嫁さんに報告し、
「ちがうってば、ぱとらさん、ひ・ま・わ・リ」詩人が不安そうに訂正するピントはずれの私にはどこか遥か遠い結末の世界だが・・・老いを自覚してから30年、大変な時代に入ったものだ。
「生まれるのもひとり、死ぬのもひとり・・・」
呪文のように心のなかで唱えながら、恋人達を見送った。


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