塔の部屋

塔の部屋と聞いてああ、とすぐ分かる人はそうとうの年代のお人だ。 山の上ホテルの今はもう取り壊されて無くなった部屋の別称である。 
お茶の水駅を降りて左手にぶらぶらと駿河台方向へ歩いてゆくと学生運動のアジビラなどが汚くはり巡らされた明大があり、その角を右へ、少し先の反対側を左へ入ったところに、こじんまりとしたレンガ作りで有名な文士御用達の山の上ホテルが建っている。 今は建て直されだいぶ近代化されて昔の雰囲気は少ないが、落ち着ける穴場なホテルである。 文士、作家先生達が執筆のために泊まられる特別な部屋が当時、塔の部屋と呼ばれていて文学を志す人間の憧れの聖域であった、らしい。
池波正太郎さんがよく御泊まりになったことで有名だけれど、学生時代通っていた学院と目と鼻のさきだったので、学生のくせにホテルの中庭やロビーで昼食を採る常連だった。 マナーが悪いと学院に文句がゆくのである程度気を遣いながら背伸びして通ったものだ。 たいしたものは食べられずフレンチフライポテトにコークを注文するのが流行っていて、コカコーラとは決して言わず、「コーク!」と気取って言っていた。 ロスといわずエルエイと言うようなものだけど通ぶってみたかったのだ。
春になるとホテルの中庭はツツジに覆われて、パラソルが立てられ南仏のリゾート地のような雰囲気で気持ちが良かった。 尤も南仏など行ったこともないのだが。 「太陽がいっぱい」や「勝手にしやがれ」「サントロペ」などの映画やサガンの小説から想像するだけだけれど、自分勝手に膨らませたイメージをそこここに重ねあわせて満足するだけの若い想像力があった。
小さいとはいえホテルである、ランチタイムになるとウエイターがサッと真白いテーブルクロスを広げ始める。 そんな仕種をぼんやり眺めながら夢想するのが大好きだった。 昭和30年代の日本はまだ貧しく、美しいものはホンの僅かだったからホテル独特の贅沢な雰囲気、磨かれたグラスや銀器、広げられるクロスやナプキンにまでうっとりと眺めて飽きる事がなかった。 時々有名な作家や「挽歌」で売り出し中の原田康子さんなどを見かけると胸がワクワクしたものだ。
そんな学生時代からだいぶ経った50年代前半に山の上ホテルが建て直されると聞き、ならばぜひ塔の部屋が取り壊される前に泊まりたいものだと予約を入れてみたら難なく泊まる事ができた。 作家先生達が缶詰めになって執筆した部屋は思ったより小さく、ドアを開けて細い通路を入った左がベッド、右手正面に3〜4段の階段がありそこの上がバスルームになっていた。 外は屋上でそこからはどの部屋も見る事の出来ない殺風景な場所だった。 古いタイルばりの浴槽は外光だけがやけに明るく大正時代のままの傷や傷みがもろに目立つサッシュの古いガラスで囲まれていた。 浴槽は瓢箪のような変型で和式と洋式を混ぜたおかしなスタイルだった。 小さな机が一つポンと置いてあり、こんな閉塞感のある場所で本当に作家先生はもの書き出来るのか訝った記憶がある。
依頼されていた駄文の仕事をするつもりでいたが食事の後は不覚にも熟睡してしまった。 良く眠れるのは確かだ。
一晩その部屋で休んだ翌朝、部屋をノックする音に出てみるとボーイが言いにくそうに
「大変申し訳ないのですが、お客さまが3日間ご予約頂いてるのは承知しておりますが、急に常連の方からぜひこの部屋を!との要望がございましたので、誠に恐縮ではございますが下の部屋とお変わり頂けないでしょうか?」と言ってきた。 この文士御用達の部屋に泊まっても一向に仕事もはかどらなかった私は二つ返事で部屋を交換したのだけれど、その常連先生が誰であったか聞き漏らしたのがいまもって残念なミーハーだった。
ここのホテルにバーノンノという9人も座れば一杯になってしまう小さなバーがある。 英国調のマホガニー作りのカウンターが本格的なうえ流行りの下手な店と違ってカクテルの味も値段も妥当、安心して楽しめるので気に入っていた。 仕事の帰りちょっと頭を切り替えたいときここに寄って“one for the road”を注文するのが好きだった。 帰り道のための一杯、ウィスキーベースのカクテルだ。 目で笑いながら差し出してくれる粋なバーテンダー。 無駄な会話が無いのが嬉しかった。 
池波正太郎さんは山の上ホテルの御天婦羅屋さんを激賞していらしたが、このバーでもお飲みになっていらしたらしい。 わくわくする。 けれどその頃御相手をしたバーテンダーはもちろんもう居ない。
塔の部屋を知っているホテルマンもすでに皆無であろう。


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