森瑶子の思いで 2

 当時のお茶の水のジローは、様々なグループが常時集まって、ある種の社交場となっていた。 
待ち合わせては新宿の風月堂へ。クラシックを聴く為に吹き抜けとなっている巨大な喫茶店は、一日中居ても叱られなかったので、いつも沢山の人で埋まっていた。 其処でも何人かが合流し、最終的には大人数で目的の店やパーティーへと向かうのだ。 半分は見知らぬ顔でも誰も気にしなかったし、グループの中心は何時もMだった。
文化学院を出るまでそんな日々だった。 その頃は既にMの回りにマコ=森瑶子は姿を見せなくなっていた。 大学卒業と共にその時のメンバーの一人と結婚した私は暫く平凡な暮らしを送り、息子も生まれた。 
 ある日、電話がかかり、低い声の年上の人との交流が再開したのだ、年上の人はボストン生まれのハイソなアメリカ人と結婚していた。 その人の生まれたばかりの男の子に、善いベビーシッターが見つけられないないので子守りを頼めないか? 夫婦で招かれている為、困っている、とのことだった。 運命は不思議!、10歳も年下の私が子育てでは先輩になっていた。 
年上の人の坊やは割礼を受けていた。 初めてオムツを取り替えた時は、驚いたが、黙っていた。 気難しいその人の御主人に招かれたり招いたり、彼等がアメリカに帰るまで、そんなおつき合いが続いた。 
 一方、マコはイギリス人と結婚したらしいと風の噂が耳に入ったが逢う事はもう無かった。 
 Mは20歳も年下のピアニストと電撃結婚をして周囲を驚かせた。 バガボンドの男を鎖につなげたのは有名な詩人の一人娘で、Mと詩人とは年令が10歳と離れていなかったと記憶している。 
Mも3人の子持ちとなると、よく我が家へ遊びにきた。 子供連れで、買い物の袋を車に沢山積で、私たち家族を自宅に誘う等昔の姿からは想像もできない程、いや私が気がつかないだけだったのか、実に小マメに若い奥さんを助けて主夫をしていた。 忙しい上に貧乏な夫を持つ私に自宅で出来るイラストのアルバイトを、セッセと持って来てくれたり、脚の不自由な息子の運動を手助けしてくれたり、昔とは違う形で私達一家を支えてくれた。 そして何年かまた過ぎていった。 

Mのアルバイトのお陰でイラストに目ざめた私は公募展に何度も応募して実力を試したが、佳作以上には中々賞を貰えず、大きく方向転換せざるをえなかった。 時代は激しく変動していて、家庭にいて絵を描いているだけの自分が世の中から大きく取り残されるような不安と焦燥感で一杯だった。 家を整え、子供と遊び、夫の連れ帰る友人達の為に苦心しておもてなしをするだけの、繰り返しの日々に、欠けている何かを感じるようになっていた。 アンアンが創刊された時代、ミニスカートと共に日本人の美意識の全てが変化し始めていたのだ。

 結婚8年目に転機がおとずれた。 丁度小学校へ上がる歳になった息子を、付近の小学校はみな障害を理由に受け入れなかった。 結局私の母校でもあるお茶の水近くの小学校が入学を認めたが、そのためには息子を実家に下宿させる必要があった。 
私は本格的に仕事を始めた。 夫の知り合いのカメラマンに「広告業界には専門のスタイリストがいない」とアドヴァイスを受けたのがきっかけだった。 

時代の風に後押しされて仕事は恐ろしい程順調だった。 1年後には青山に小さな事務所を借り、アシスタントを抱える迄になった。 あるカメラマンからは「スタイリスト風情がアシスタントとは!」と皮肉も言われたが、分業する事で能率を上げ、客観性を持って仕事を進める為には討論も必要だったので、このスタイルはその後定着した。 
数年後、仕事の為に洋服を縫ってくれた人が、私の仕事に興味を持っている人物が居るので逢って貰えないだろうか? と言ってきた。 マコだった。 ジローの日々から15〜6年は過ぎていた。 

つづく

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1991/1/8

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