オスカージョヴァンニソクラテス

寝不足で不機嫌な毎日をおくっていました。 黒猫デイビーが消えてから全ての憑きが落っこちたように物事が空回りをはじめました、子育てをしながら絵を描きはじめたのが事のおこり。 
公募展の時期は夜中家族が寝静まっている間に描くわけで、夜はすぐ明けてしまうのでなんて時間は短いのだろう、と悔しい思いをしていました。 24時間なんてぜんぜん足りないのです。 
朝、仕事に出る夫に持たせるお弁当を3っつ作り、自分と息子の分も確保して息子がお昼ねをする時に合わせて睡眠不足を補い必死で描くわけで、何かに追い立てられるように描いて描いてかきまくっても、壁は厚く特選にはならない。 
時々尋ねてくる姉などは「あんた才能が無いわよ」とはっきり言ってくれるのだけど「それは自分で見極めるから!」内心ヤッパリと想いつつも筆は折れません。 
ある日突然血を吐いて吃驚仰天、関東中央病院へ連れてゆかれ、結果がでるまで絶対安静を申しわたされました。 伝染っては一大事と坊やは実家に預けられ、家政婦さんも実家から手配されてジッと天井をみつめる安静の日々に考えたことは、今まで順調すぎたことが返っておかしい、人生なんてそんなに甘く無いのだから今回の吐血も何か意味があるのだろう、ということでした。 死と向かいあった最初の出来事でした。 
二週間経って病院へ結果を聞きにゆくと、
「肺は綺麗ですよ、結核の心配はまったくありません。咽の血管を破っただけでしょう、過労です。」振り向いた先生はニコニコ笑っていました。 
よく「血を吐く思い」という言葉を耳にするがまさに実体験してしまったのです。 ホッとした気持ちと同時に人間って案外丈夫にできているな、完全に壊れる前に信号は出してくれるのだ、安堵と許された気持ちとで満足し、あっさり絵を捨てる決心がつきました。 此の時から急激に仕事をしてゆきたい欲望が頭をもたげてとめられなくなってきました。 
身体が弱いというだけで何をするのにも父母の庇護のもとに管理され、結婚した後も親や夫から自立できないまま母親にだけはなってしまう不自然さが嫌でたまらなかったから自分を変えたかったのです。 
安静にしている間に考えたことは、死をむかえる瞬間にもし納得いかない生き方をしていたらそうとう後悔するのではないか、でした。  趣味とか芸術とかに関係なくちゃんと今の能力を活かして自立したいと真剣に考えはじめました。 
そんな時夫から小さい黒ウサギをプレゼントされたのです。 黒猫デイビーがいなくなってから3年経っていました。 
気持ちがアグレッシブだったせいか短い名前はおもいつかず、オスカージョヴァンニソクラテスとつけたのでした。「ずいぶん長い名前だね」夫はあきれて一言。 
私と息子とオスカージョヴァンニソクラテスは何処に行くのも一緒、ポケットやバスケットにいれてでかけました。 
オスカーワイルドから銀河鉄道のジョヴァンニそして悪妻で名高いソクラテスから名前を頂いたのも無意識の自己暗示だったのか、今にしてみるとあの時は必然的命名であったのでしょう。 思い出しても笑ってしまうが当人は大真面目なのでした。 
ムーミン谷のスナフキンそっくりな夫は沢山の悩める友人達に両手を塞がれていましたから、その隙に一気に自立の路を確立することに手間はかかりませんでした。 生まれて始めて自分の意志で行動をはじめたのです。 コミック雑誌のルポが初めての仕事、続いて下着メーカーのポスター、スタイリストへ。 

家事は徹底的に工夫し、手を抜くよりもより手をかけることで時間を浮かせる方法を会得していきました。 たとえば鳥のスープ、牛豚の骨のスープは毎日火をいれ絶やさず寸胴鍋でストックしておきインスタントラ−メンに一手間加えたり、カレーや野菜スープのベースにしたり味噌汁に変化をつけたりで、急な来客にも対応できるように努力もおしみませんでした。 

どこからも文句は言わせないぞ!という迫力ある人間にアッというまに自己改造してしまいました。 もう仕事をする喜びを私から奪うことは誰にもできません。
70年代の幕明けがオスカージョヴァンニソクラテスと共に我が家にやってきたのでした。


Retour