2013/11/5 火曜日

古河市兵衛の妻女・・・秘話。

Filed under: 人物,時代 — patra @ 0:59:57

美しい庭園になっている旧古河邸はジョサイア・ゴードンに依て設計された古河市兵衛の邸宅跡であるが、この贅を尽くした建物にもある悲劇があったという歴史を初めてしりました。
足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。此の邸宅の持ち主が鉱山主で莫大な財産を築いた古河市兵衛、立志伝中の人物です。

銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらしました、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり天皇に直訴する事件にまで問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っているのは周知の事実です。
丁度今年の園遊会で天皇にお手紙を手渡し物議を醸した山本太郎議員が田中正造の命をかけた直訴と比べられていますが、正造も狂人扱いされ、全てを失いながら闘ったのは後世になって理解されたのです。未だ始まっても居ない山本太郎は時代が判断することでしょう。
私が驚いたのは、古河の妻女の記事を発見したことです。
FBを巡回していて見つけた文章です。出典が明らかでないのですが・・・以下抜粋。

『明治34年11月、活動を開始した鉱毒地救済婦人会の会合に、古河市兵衛婦人は、ひそかに家の女中を出席させた。婦人は、ちまたの運動の意味が全く理解できないでいたのだ。帰ってきた女中からの報告を聞き、初めて鉱毒被害の実態を知った婦人はその夜神田橋から身を投げて自害した。

 キリスト教徒、社会主義者、仏教徒らが中心の救済活動であったが、現地を訪れた人々は、想像以上の惨状を見て絶句した。鉱毒がいかに人命を奪い村を崩壊させたかを知り初めて中央で活動していた人々は、その無知さ加減を認識したのであった。』

知らなかったという罪をこんな型で自分の事として苦しんだご婦人が明治には居たこと。夫の仕事が沢山の鉱毒に苦しむ人との犠牲の上に成り立っていたのか?を知った恐怖は想像に余りあります。
自分の罪ではないものに対して,真摯に悩みこうした哀しい責任を取るご婦人が明治にはいらしたのだ。と言う事を記憶しておこうとおもいましたが何か釈然としない美談に過ぎる死でもあります。

華麗なコンドルの建築は何時建てられたのか?ここに、何年婦人は住まわれ栄耀栄華を味わったのでしょうか?そんな思いで調べてみました。

一度も住まわれてはいませんでした。

旧古河邸は、元は陸奥宗光の館でした。古河市兵衛の養子となった潤吉は、古河鉱業事務所といった旧態の経営組織を根本的に改めて、明治38年3月古川鉱業会社を設立し社長に就任。その年12月、西ヶ原邸で早逝しました。享年35歳でした(前掲書)。
 市兵衛と側室せいの間に生まれたのが3代目虎之助です。3代目虎之助は、社運隆盛にともない、当時の貴顕、新興の財閥がきそって豪邸を構えた例にならい、古河の威勢を天下に誇るにふさわしい邸宅を西ヶ原に新築することにしました。(抜粋)

何と3代目の妾腹の子、虎之助がこの豪華な邸宅を建てたのですね。

神田橋から身を投げた婦人はこの洋館に一度も住まわれていないという事実、お子もなかったらしいとその姿が歴史の年表上に浮かびあがってみえました。
婦人の亡くなった4年後、養子の潤吉が会社設立10ヶ月後の12月35歳で亡くなっています。
市兵衛とお妾さんのの間に出来た子が3代目虎之助で生まれたのが明治20年ですから、当然妻女はその事を知っていたのでしょう。

妻女には足尾銅山の鉱毒騒ぎだけでない心労が様々重なった事と思われます。
婦人が神田川に身を投げたのは明治34年。虎之助13歳です。養子潤吉はその時31歳、それから4年後に35歳で亡くなっています。

巷の鉱毒騒ぎに驚き責任を取っただけではない、(それもキッ掛けの一つだったのであろう)・・・複雑な家庭事情があったはず、そう納得しました。

3代目古河虎之助の夫人となった・不二子が西郷従道(西郷隆盛の弟)の娘であるなど、実業界、官界の大物が家族的紐帯で結ばれていたことが、これ又興味深かったです。あの豪邸は一代では成らずということです。





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