2009/3/18 水曜日

私の小さい桜の話

Filed under: エッセイ,時代 — patra @ 2:25:59

息子たちの帰国で静になった我が家、用心のために夕方から全ての鍵をかけ門灯をつけてまわる。1階の階段下から2階の小窓を見上げると桜が私を覗くように咲いているのが見える。枝ぶりの見窄らしく成ってしまった延命の桜だ。「今年も誕生日前から咲いてくれてありがとう」そう声をかけ、そうだ今夜は佐藤良二のさくら道がドラマ でやる日だな!と思う。

冷凍庫の整理がてら早めに夕飯を済ませ裏の敷地に残してもらった桜のためにもドラマを見ました。バスの運転手の佐藤さんが桜街道を作りあげようと努力しているニュースを知った頃、私は息子の育児の真っ最中だった。木が大好きだった私はその頃の経堂の陋屋が木に囲まれているのが何より気に入り住んでいた。

実家だった、今現在は私の所有する此処は昭和26年から父が住んでいたのだが元は江戸時代から続く味噌問屋さんの地所だった所を安く購入したのだ。その地主さんの屋敷は重い瓦屋根に潰されそうな平屋で陰気な雰囲気だったのは鬱蒼とした大きな庭の木々のせいだった。

池もあり古井戸もありお稲荷さんの社も誰も手入れをしないせいで朽ちかけていた。時代についていけずに 没落していく様子が子供心にも強く印象に残る無惨な庭だった。どんな人が住んでいるのかもお隣なのに地主のお爺さんしか目に入らなかったが結構大人数の家族が住んでいたようだった。ある時から家に隣接したニワトリ小屋に裸電気を引き勉強部屋にする学生さんが現れて増々暗い様相を醸し始めていた庭だった。

木の好きな私はお嫁に行くまで隣の木々の雨に濡れて艶やかに蘇る様や木枯らしに丸はだかになる様を具に観察 しては木に語りかけ励まさずにはいられなかった。日がな木を眺めていたので夜中の火事も発見し2階の窓から大声で地主さんを起こしてあげたこともありました。幼少の頃からの癖だったのでしょう。大袈裟に言うと木の声が聞こえていたのかもしれない。

70年代後半になって出戻った私に隣の木々はなお鬱蒼と茂り我が家の屋根に触れんばかりに枝を伸ばしていました。既に地主さんも亡くなり終に土地は売られジャングルのような絡みあった陰気な庭が 取り壊される寸前に私は受話器を握り敷地の端っこの桜と銀杏,柿にローリエと泰山木の延命を裏の会社に直訴するため電話をしたのでした。

忍びなかった。木々が切られその土地の歴史が跡形もなく消え去るのを見過ごすなんて絶対に。ローリエ(月桂樹)は切られ泰山木は桜とともに残されました。嬉しかった。

それからです。早咲きの品種だったのでしょうか?3月のはじめには咲いてしまう桜。年に何回も見事な白い花を咲かせる泰山木。あれから30年、先日、泰山木がついに切られてしまいました。

日当りと栄養不足の桜は哀れなくらい弱っています。去年は私の誕生日には間にあいませんでした。今年は危機感からか・・・窓から覗く桜は色こそ褪せた白にちかい花を必死に咲かせてくれています。新社屋建設のために取り壊された敷地に取り残された桜と1軒だけの我が家。人間が植え育て人間が残酷に木々を切る。

ドラマの中で実生の種を桜が一杯落とすシーンに泣きました。なぜなら10年程前に裏の延命の桜,この実生の種をいっぱい降り注ぐように落としたことがあったのになぜか解らなかったからです。不出来な桜んぼ?と。無知でしたが私個人ではどうしようもないことと諦めていたのでした。企業がせめて木々を土地の歴史として残すくらいの度量が あれば・・・・虚飾の繁栄ではない真の受け継ぐべき繁栄につながりはしないか?さくら切ってはならない。

諦めなかったのが佐藤良二のさくら道、この地球上に彼のような人こそ必要だった。





コメントはまだありません

RSS feed for comments on this post.

© 1999 - 2024 Patra Ichida, All Rights Reserved.

モバイルバージョンを終了