2006/7/12 水曜日

沖縄密貿易の女王

Filed under: 人物,友人 — patra @ 1:16:39

ナツコ―沖縄密貿易の女王
台風の季節に、沖縄に滞在中の友達から、すごく久しぶりにメールが届いた。
私の所には、ほとんどスパムメールしか来ない最近なのでいそいそと開くと上海や沖縄を仕事で飛び回っているらしい元気いっぱいなメールだった。戦後、アメリカの占領下、沖縄で闇貿易に活路を見いだし活躍した女性のドキュメンタリーに関わっていたそうで多忙だとのこと。

その漫画チックな題名とは裏腹の熱気と才気あふれる女性の伝記らしい。ぜひ読んでみたいとおもう・・・そう伝えると東京に戻ったらビデオと本を送るよ、と返事がきましたので楽しみ。

沖縄といえば何時も思い出す人が居る。1979年に初めて沖縄に仕事で行った時は沖縄は日本に返還されては居たが、まだ至る所、アメリカの植民地ぽい雰囲気が基地の其処此処ににじみ出ている土地だった。

カティサークのカレンダーの撮影で今や押しも押されぬ女優さんの新人としての初コマーシャル、緊張で堅くなっている彼女をリラックスさせるのが主な私の仕事だった。
沖縄は湿度が激しく、山のゴルフ場のコテージでの撮影は霧雨が降っているように衣装もヘアもすぐにベトベトに湿ってしまう面倒な撮影だった。

つい先日、沖縄の大雨で地滑りしたマンションの映像を見て、はるか20数年前はゴルフ場ばかりで高いマンションなど立ちそうもない湿った砂地にいつのまにか繁栄という名の元にマンションが立ちならんでいる状況に驚いた。
木の少ない潮風の多い土地にコンクリイートの重たい土台を作るのは大金がかかり至難だろうにいつの間にこんなにビル化してるのか?と。

占領下の沖縄人の耐えてきた苦労を「ひめゆりの塔」くらいでしか知らない我々はそのカティーサークの撮影時、那覇の飛行場の偉い人から有名らしい料理屋でご招待いただいた。
すると昼間の撮影でナーバスになっていた新人女優さんはどうしてもその宴席に出るのを嫌がった。女優は芸者じゃない・・・というのが彼女の言い分だった。

もちろんそんな事は我々スタッフだって十分に理解している。ただ社会の繋がりというものはスポンサーさんの意志が優先され彼等の利害の中に一席設けることで何かお役に立つことがあればその2、3時間を一緒に共有するなぞ何ということでもない・・・マネージャーさんがお手上げになってしまった、ごねる新人女優さんにやんわりと事情を説明し説得させ着替えさせて料亭に着いた頃は既にお偉いさんを2時間近くお待たせしてしまっていた。

将棋を打ちながら我々一行を待っていらしたスポンサーと飛行場の偉い方は相当に立腹されていたのではないかと思ったが顔色ひとつ変えず取り繕ってくださった。
宴半ば
「日本人がお土産を買い漁るハワイのXXは小学生で連行された我々沖縄人が埋め立てて出来た地なんだ・・・内地の人に我々がどんなに苦労してここ占領下で生きてきたか、理解できないだろうな」白髪、細面のだが日焼けした紳士は、当時の苦しい状況を思い出したかのようにニガニガしく吐き出した。
呑気な内地人(うちなんちゅう)の撮影クルーはいっぺんに酔いが冷めた・・・。
何と言葉を返しても虚しいようで皆押し黙ってしまった。

「えぇ、よく分かります、でも東京の3月10日の空襲では私も被災しています。苦労の質は到底及ばないかもしれませんが両親は満州からの引揚者ですし・・」そう私が答えると紳士はギョっとしたように私を見て「え、君は戦争を知っている世代なのか?そうは見えないけど」と仰り,クドクドとした言葉を呑みこんだ。

あのバブルの前兆の好景気な頃、沖縄の人達はきっと日本人、内地の人たちを決して好きではなかったのだろう・・。でも戦争の悲劇は日本の至る所に散らばっていたのは事実だった。そのお偉い紳士は宴会のたびに内地の人々に沖縄人の苦労を分かって欲しくて招待されていたのだと思う。

自分ほど苦労した人間は居ない・・・・と。

そうだろうと疑いはしないけど、もっと悲惨な運命の中で生きている人に出会うとき
自分の幸運、こうして生きていけている事実を思い知るものだ。
私がほぼ10も違わない年齢と知った瞬間からその食事会は和やかな空気に変わり新人女優さんの笑い声も安心したように広間に響いた。

もう一度この本を手にとって戦争の犠牲ののち立ち上がり生きるためのエネルギーが人一倍激しかった女性の伝記を、読んでみたい。

50才弱にして立派に出世していた方でさえ拭い去ることのできない傷として我々内地人に語らなければ気の済まなかった沖縄の時代背景を探り直してみたいと思ったのでした。


  1. 僕も戦争を知らない苦労知らずの人間なので、戦争の話をされても何と言葉を返していいのか分からなくて、「そうですね」と相槌を打つぐらいしかできません。
    今度サッカー日本代表の監督に就任するオシムさんは、あるインタビューでこう答えています。

    「私の人格形成において戦争体験が影響しているかといえば、本当は答えはイエスなのだろう。
    しかし、それを認めることは戦争のことも認めるような気がするので、答えはノーと言っておこう。」

    コメント by 変人です(^▽^) — 2006/7/12 水曜日 @ 19:44:02

  2. うふふ
    オシムオャジさんったら・・・彼は何国人でしたっけ?そして幾つだったか?兵役には行ってないと思うのに軍隊式スパルタトレーニング!♪でも何というレトリックの巧さよ(笑)

    昨日、沖縄返還は1972年だよ、と教わったんです。あれ?もう年代がゴチャゴチャになっています。その頃はグアムロケが多かったな!?!?
    訂正すると多分返還されて間のない沖縄は、まだ基地のおもかげが随所に残っていた・・・となるのでしょう。

    私の人格形成に戦後の日本の貧しさが強く影響しています、だからこそ戦争を心から反対します。
    じゃないともう直、誰も戦争の怖さを伝える世代がいなくなってしまうから。

    コメント by patra — 2006/7/12 水曜日 @ 21:17:57

  3. オシム監督は現ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身だよ。
    兵役とかそんなレベルの話じゃないよ、十年ちょっと前まで空爆されていたんだから。

    コメント by kyo — 2006/7/12 水曜日 @ 22:06:12

  4. わ、そうだったの!!
    年齢は私より1歳上なだけなのに・・・

    >十年ちょっと前まで空爆されていたんだから。

    「走っても死なないよ・・・」って言うわけだ。まいった。

    コメント by patra — 2006/7/13 木曜日 @ 0:58:22

  5. 兵役レベルの話じゃない、といっても彼の特訓は軍隊そのものじゃない!?
    どう言う質問があって、あのようにオシム監督が答えたのか
    私は状況を知らないから良くわからないけど単純に
    戦争って大変、ちょっとした切っ掛けで憎みあうと
    すぐ戦争になっちゃうから、戦争は駄目と言い続けたいのでレスに書いたのです
    とメールすると息子から・・・

    >それはそうでしょう。
    >危機感持ち過ぎるとかえって戦争になるし
    >困ったもんだ。
    >でも日本人の平和惚けの問題のひとつは、戦争といえば第2次世界大戦だと思っているところ。
    >今だってどこかしら戦争中。

    と返事が来ました。それとちゃんと年代を調べて書くくらいはしなさい!と叱られた。

    変人さん、オシム監督の人柄を良く理解しないまま、適当に答えてごめんなさい。すごく深い意味のある言葉をご紹介くださったのに表面的な理解をしてしまった(汗)

    コメント by patra — 2006/7/13 木曜日 @ 11:52:14

  6. 気にしないでくださいね。
    僕も適当に書いたのですから。(笑)

    質問の内容については、
    「あなたの我慢強さは、旧ユーゴスラビア代表監督時代に内戦が始まり、包囲下のサラエボに残された家族との別離を数年間にわたって耐え忍ばなければならなかった経験からなのでしょうか?」
    というようなものです。

    「苦労が人を育てる」と言いますが、戦争による苦労を認めたくはないという気持ちがなんだか泣けてくるのです。
    民族浄化とナショナリズムの嵐の中で、旧ユーゴは分裂してゆきます。
    そこに生まれ育った人々は、逃れようのない苦労の中で望まぬ人生を歩かされるのかもしれません。
    戦争はダメ、暴力はダメ、争いからは何も生まれない・・・
    分かってはいても、人間は何かを守るために戦わざるを得ないのかもしれません。

    コメント by 変人です(^▽^) — 2006/7/13 木曜日 @ 16:46:02

  7. 変人さん
    お返事どうもありがとう。なるほど質問を読んでやっとオシム監督がなぜああ答えたかの全貌が分かり…戦争による苦労を認めたくないという意味に同じく泣けますね。
    >分かってはいても、人間は何かを守るために戦わざるを得ないのかもしれません

    ここにジダンの心も重なってため息をつきながら読みました。
    ジダンが10分我慢して勝っていたとしたら・・・マテラッツイは暴言の効力の無さを自覚するか?といったら怪しい。

    人が人の中で共存しつつ、らしく生きるのって斯様にむずかしいものなんでしょうか?
    ドイツのmichiyoさんからも、引っ越しの時、当時サラエボで戦時中にも拘らず、ドイツで健気に働いていた力持ちの青年の話が届いたばかりです。

    個々の静なる努力をする以外に、我々には手だてはないのでしょう。

    コメント by patra — 2006/7/14 金曜日 @ 0:33:32

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