センチメンタルジャーニー

日本にやって来る台風がアメリカ女性の名で呼ばれていた時代。母は戦争中我慢を強いられていた洋画を堰をきったように見始め、必ず子供を連れていった。留守をみてもらう人も居ない、我慢するより連れていったほうが早いと思ったのだろう。
 
シンドバッドの冒険やバンビといった子供モノから大人の恋愛映画まで、兎に角手当たり次第に連れて行く。映画館の暗闇の中でたいがい眠り込んでしまう姉と違って私は食い入るように画面を見ていたらしい。6、7才の私は家に戻ると、金髪・赤いマニュキアの女性を熱心に画用紙に描いていた。
 
そんな中、音楽が印象に残った映画があり、今も口ずさむのが『センチメンタルジャーニー』なのだ。I'm gonna take a sentimental journey, sentimental journey home 〜♪
1950年代の、言ってみればアメリカ版母モノ映画で、題名も同じだったと記憶している其の内容は、ある金持ちの女優さんか歌手が養子に貰った小さい少女を溺愛し、その少女と馴染めない夫との仲を取り持ちたいのだが巧く行かない。
妻を奪われるようで大人の癖に子供に嫉妬する夫、といった内容が、バックグラウンドに流れるセンチメンタルジャーニーのメロディーと共に、見てる我々をハラハラさせるのだが、その女優さんの突然の死で一層、夫の心は荒む。妻の愛した少女を憎み酒びたりの夫では育てられないとの周りの決断もあり施設へ戻る日、少女はお別れに来る。この幼い少女が実に可愛らしくて生きている御人形さんみたいなのも子供心に衝撃だった。
妻の残したレコードメッセージを聞く夫の姿、<少女を自分の死後、替わりに可愛がって欲しい>その切々とした声と音楽が全編に流れ、夫は死を自覚する妻の真意を知り慟哭する・・・そしてまさに遠くへ旅立とうとする少女を抱き締める!・・・まぁたしかそんなストーリーだったがこの曲が日本では空前のヒットとなって当時何度もラジオから流れたのだ。昭和23年、本所近くの錦糸町の小さい映画館で見た母と私の記憶。

本所に流れている川の橋際には、宮内庁の典医だった方の病院が戦争の爆撃痕が残るまま取り残され、町全体が未だ陰気な空気に覆れている暗い時代だった。橋を渡って左裏に小学校があり、ここで『アリババと40人の盗賊』という新劇人公演の芝居を見たのも同じ頃、アリババの先っぽの曲がった刺繍入りの靴や衣装にも強烈な印象を持った私は7、8歳になっていた。

本所時代、父は、母の起こした火事の責任を取り住宅公団を辞めて伯父の材木問屋に居候をし、痩せた身体に長い材木を担ぎ、不器用に重心を取りながらトラックに載せてたりし腑甲斐無い暮らしに甘んじていた。
材木置き場の侘びしい湿った、独特な匂いの充満する本所で、何度か近所の子供が材木置き場の下敷きになったり川に落ちたり、キティ台風やキャスリーン台風の浸水で怖い思いをしながら戦後を生き、私が静岡の養護施設へと送られるまで、このセンチメンタルジャーニーを耳にこびり着くくらい何度も父がギターを弾いては歌っていたのを覚えている。寂しいこと極まりない旋律だった。

材木屋の2階で間借だった貧乏所帯の父が何故ギターを持っていたのか? 先程母に確認すると母の嫁入り道具だったのを、父が引き継いだのだそうだ・・・昭和14年、神田で3千円で購入したギター、決して安くはないそれを、何を思って親に嫁入り道具としてねだったのか? 更に問い質すと、ギターを弾くのが母の憧れで結婚して満州へ渡ったら習おうと密かに思いねだったそうだ。何故値段を覚えているかというとそれが店で一番安かったから・・・だそうな。結局、指が痛くて、とてもじゃないけど続かず3日で放っておいたら、父が“俺にくれ・・”と、学生時代に大学で弾いたのを懐かしみ大事に日本まで持ち帰り、戦災にも焼けずにその後、ギターは買い替えはしたが彼の終生の趣味と相成ったそうである。

もう一つ爆発的に売れたのはペギー・リーの歌う『ジョニー・ギター』・・・♪ play the guitar, play it again Johnny guitar I love you ♪とか何とか・・・これはジョーン・クロフォード主演『大砂塵』という西部劇の主題歌だ。この映画の頃はもう中学生になって女子美の付属へ通っている。二本共主題歌が当時日本で圧倒的に流行したのだが、それを裏づけるエッセイを演出家の小池さんが書いてらしたので、あぁ同じ時代だと感じ入る。
やはりこの2曲がお父上達の生活を表わす記憶として出てくるのだが・・・日本という時代を反映して、その共通性が嬉しかった。

子供がどんな世代の親に育てられるか、は結構、成長の背景を知る上で重要な気がする。音楽や楽器を身近に聞き育つには特別な環境があっての事だろう、そう想像しがちだが、戦後のあの時代、暮らしの中に今より貪欲に音や音楽が入り込んでいたように思うのは小池氏と同じ感想を持つのだが、父に限って言うと蓄音機を持たない長い期間、彼の音楽の取り入れ方は楽譜を買い、あるいは耳で反復しギターを弾くことで音の世界と係わりながら暗い時代を凌いでいたのだ。

薄っぺらな楽譜を駅前で購入してきては情熱だけでマスターしてゆく父の背中に私は中学生頃、禁じられた遊びとかジョニーギターを絶えずリクエストしては、楽器を弾ける父を羨やんだ。母と同じで指が痛く、やっぱり3日と習っても続かなかった少女時代、ラジオにかじり付いて外国放送の歌を丸暗記したのだが音感は悪かった。私が大人に成る頃、父はフラメンコギターの相当な弾き手になり、もうジョニーギターは忘れて弾けなくなっていた。

隔世遺伝子というのがあるとしたら、息子は祖父に似てギターを弾くし音感もある。
なのに私は息子がチビの時、彼が好んでよく歌っていた「帰って来たヨッパライ」を音痴だと思って止めさせていた。最近TVで加藤さん本人の歌うのを聴き、息子があのきわどい音程を確実に、三才にして見事に把握していたのだと知り愕然とした。ボサノバの歌い手になれたかもしれない芽を摘んだかも?な〜んて冗談だが悪いことをした!と思ったのだ。あの三才頃から彼は人前では歌わなくなったからである。

父の死後、古い楽譜の束を、見もせずに処分してしまった事を父にも息子にもすまない気がしている、今更なのだが。
他には沢山の映画プログラムの山、資料となる貴重なそれらも母の若さの秘訣なのに捨ててしまった私には、罰のようにジワジワと感受性が鈍る。

両親も若かった事をどうしてすっかり忘れちゃたのでしょうか?わたし以上に感性を秘めながら辛い時代を生きていたというのに・・・。
もう老人だった彼等しか記憶にないなんて長い時間が過ぎたものだ。


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