哉路空亡(万事休す)とは

わたしの両親はお見合いである。母方の伯父、宗教家の友松園諦の所へ出入りしていた読売新聞の記者が非常に面倒見のよい殿方で、年頃の姉妹が4人もひしめく正本家の様子を其れとなく見ていたのだろう、長女である母が淑徳女学園を卒業するのを待つとすぐ、これも懇意にしていた名医、武見太郎先生の元へ相談に行ってくださった。
母親同志が同郷というだけの縁だが、伯父友松の仏経講演に熱心に通っていた浅草小島町に住む袋物問屋の次男、父を紹介してくださり伊豆でお見合いをしたのだ。なぜ伊豆か?というと父は前年(昭和13年)東京帝国大学建築科を卒業したのはいいが、当時の日本はものすごい不況の就職難。官僚には成りたくない父は就職口が見つからないまま、酒ばかり飲んで遊び暮らしているうち肺に影が出て、武見太郎先生の勧めに従い伊豆で初期療養していたからだ。
嫁とりの条件は「身体が弱い事を承知で、看護婦のつもりで来てくれる人」が必須だったらしい。ずうずうしい条件だ。
一方母は器量が悪い自分が売れ残ると後につづく綺麗な妹たちに迷惑がかかるから、適当な所でサッサとお嫁に行こう!と秘かに決心していたようで見合いは即決した。
母を選んだポイントを、大人になってから父に尋ねたところ、前を歩く母の首が細かったのが良かった・・・だそうである。母は尊敬する伯父や先生方の推薦だからと見合い写真を見ただけで嫁ぐつもりで、断られるかもしれないことは考えなかったそうだ。目出たしな話である。
 
結婚が決まると同時に満州の建設局に就職を決め、父一人先に赴任し婚約時代の半年ばかりは手紙のやりとりのみで交流を計ったそうだ。父は無口なのに手紙の文面は面白かったらしい。「騙された」と母は言う。
上野精養軒の結婚式は送別会も兼ねた盛大華麗な宴席だったそうだ。何とウェディングケ−キは当時は珍しいアイスクリームで富士山をかたどった見事なものだった。当時の世相を表わす帝国日本の日の丸の小旗がクロスして飾られている大袈裟なもので、双方の親の意気込みまで伝わる写真が残っている。素人の家で3回のお色直しはとても珍しい時代だった。
 
満州は奉天の煉瓦造りの社宅に住まう事になった母は3日3晩、泣き暮らしたらしい。それは父が無口・・・とは聞いていたけれど二人きりになれば!とタカを括っていたのが失敗で、日常生活は手紙のやり取りのようには行かずまったく会話が無かったそうだ。
 
会話が無くとも子は産まれる。昭和16年、1月に長女の出産。それより10ヶ月と間を開けずに私が産まれたのだ。悲劇の始まりである。普通に考えても、ジャガ芋でも同じ畑から続けて収穫をすれば翌年は不作。土壌をゆっくり休ませ肥料をたっぷりあげて美味しいジャガ芋を作るほうが良いに決まっている。
案の定、姉の出産で栄養分を使い果たした後に出来た私は発育不良、いつまでも首が座らなかった。一年たらずで母を奪われた年子の姉とは子供時代は喧嘩が絶えなかった、これも今の時代なら絶対に避けるべき育児プランである。年子は子供を嫉妬深くするからだ。罪つくりな親である。
今でこそ家族計画がしっかりとインプットされているが昔は斯様に無知がまかりとおる時代だった。しかも母はこの満州で姉を身ごもっている最中に実母を亡くしているのだ。教えてくれる筈の人が、もう居なかった。
 
私が産まれた昭和17年は戦争の足音が迫っていた。物資の流通が止まり母乳が出ない母は私にコンデンスミルクを溶かしたものを飲ませて猛烈な下痢をさせ、消化不良で命の危険に晒したのである。もう今晩あたりダメだろうというとき、噂を聞き付けて同じ社宅の上役の御夫人がお乳を分けて下さる事になり、辛うじて一命をとりとめたのだ。毎日私を抱いてお乳を飲ませてくださった御夫人が問わず語りに聞かせてくれた話によると、後の名指揮者の朝比奈さんの姉上だったらしいが真偽のほどは戦後の混乱で所在不明、お礼もせず母が今だ後悔する事の一つだそうだ。
 
ミルクも手に入らないとなると、両親は親のすすめもあって産まれて7ヶ月経つた私と一歳の姉を連れ、満州を去る決心をする。
非常に先見の明が働いた!と見るべきだが、これは当時政府の高官を看ていた武見先生の情報に依る所が大きい。そのすぐあとに戦争へと突入する日本は沢山の同胞を中国の凍土に埋める事となるのだから・・・・。
 
船に乗る直前に記念写真を写したそうだが私の首は母が必死で支えている。
 
桟橋で私を抱いた母が足を出した拍子によろけ躓いて、抱えていた7ヶ月の私はボタと厭な音をさせて下に落ちた。あわてて拾いあげると口から泡、2度目の災難である。
普通ここで乗船を見合わせるものだが彼等はそのまま釜山まで行き、頭の腫れ上がった私に船長のすすめで一旦釜山で下船、熱が下がるまで3日間、様子をみることにしたそうだ。
 
浅草では父の実家での居候生活、とても肩身が狭かったそうだ。母は家事がとにかく苦手、一方姑は鬼のような働き者ときている。しかもハンドバッグ職人として30人もの弟子を抱える人、小姑が8人。想像を絶するバトルもあったらしいがあまりに物事を知らない母は虐めにも気がつかない呑気さで、泣く方はお姑さまだったという笑い話が残っている。
戦局が厳しくなると嫁いでいた兄妹たちまで浅草の実家へ集合したらしい。なにしろ関東大震災も経験している姑の鶴の一声で集合した大人勢の中で、小さくて発育不良で口の遅い私は座敷きの隅の座ぶとんでいつも寝かされていた。
昭和19年3月10日、東京大空襲の昼、けたたましいサイレンの音に茶の間にいた大人達はこぞってその辺の荷物をたぐり地下の防空壕へと階段をなだれ落ちていった。
 
目を覚ました私は、がら〜とした音のない世界をすこしだけボンヤリと眺めていた。どの部屋にも人気がない。大人がいつも居た広間のほうへ歩くときペタペタとなる自分の足音を初めて実感した。2才になっていた。
真っ暗な座敷きの向こう側の、ほんの少しガラス戸の開いた廊下から、真っ赤な明かりが射していた。
懸命に覗くといつも鯉を見ていた池は真っ赤だった。
 
取り残されていた時間は、母も覚えていないそうだが空襲解除の鐘が鳴ってゾロゾロと出て来た大人たちは真っ暗な座敷のまん中に独りポツンと立っている私を発見して腰を抜かした。 父は母が、母は父が抱えて逃げたものとばかり思い込み、防空壕の中でも確認さえしなかった若い両親。ぎゃ〜っと泣く事を私はこの時、はじめて体験した。泣く事で大人に構ってもらえることを知ったのだ。その後、所構わずビービー泣いてみせた。
 
とにかく浅草は危険だ、と、大八車に所帯道具を積んで芝の増上寺へと移り、ここでも私は昼寝中に買い出しに出ていた母を追って迷子になり、石段の下でお巡りさんに捕獲される。「昨日の空襲の被災者だね・・・」と胸の名札を見たお巡りさんに手を引かれ、のんびり港区芝を散歩しながら親探し。路上で母とばったり遭遇したのだが、母曰く「何故あんなに高い縁側から下に降りられたのだろう?ぜったい無理だから大丈夫だと思ったのに」と当時の私を不思議がる。
増上寺でも私は初体験の長い石段を、後ろ向きになって必死で降りた記憶がある。
子供はきっと何でも見てしっかり覚えていく、なんでも工夫してできるに違い無い。出来ないふりは、きっと泣くことを覚えた私みたいに、それが楽でおもしろいからか、親をからかっての事なんじゃないだろうか。
 
あの日見た真っ赤な池は、燃えた畳や建て具が空を飛ぶのが映っていたのだと、大人になって知った。それほどの大空襲でも、風向きによっては飛び火もしない家もある。運は紙一重なのだ。
浅草小島町はこの3月10日には何事もなかったが、その後の類焼で結局丸焼けとなり、千葉へと疎開することとなる。そして終戦を迎えてホッとする間もなく、その年の10月に千葉の借家までもが母のコンロの不始末で燃えてしまう。本当にすべてを無くした私達一家はトホホな人生を歩む事になるのであるが、私のこれは、ほんの助走にすぎない運命なのだから笑っちゃう。
 
哉路空亡の女・・・もちろん殿方もこの運の方はいるが、尋常ならず厳しい人生を送るよう運命づけられている人の事を云う。一事が万事、邪魔が入る。産まれた日時で決められてしまうのだから始末が悪いが、この産まれならばきっぱりと己の人生を諦観することだ。
王陽明、孔子、近藤勇も皆案外この生まれなのではないか?と考える。その中からこねくり回した信念が生まれるのだとしたら、端座する人生もまた楽しい。


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