時間道

悪い癖なのだが私は深い考えもなしに軽はずみな意見を堂々と確信をもって、図々しくも断定的に口にするきらいがある。特に若い頃にその性急さや激しさはひどく、自分も回りをも巻き込んだ。

ゆっくりじっくり考えて尚結論を暖めるところの<慎重居士>を無口唐片木!と決めつけ、じれったくてたまらなかったのだから失礼な話。好きか嫌いか・・・そんな単純な物差しで事の良し悪しを語られたら迷惑千番なのだが、反応の素早さこそが溢れる「感性」の証しである、とばかり永いこと勘違いしていたのだから相当の馬鹿者、おっちょこちょいだった。なにを隠そう・・・いや今さらなのだが、浅はかな即決人間なのだ。

しかし歳を重ねるにつれ、勘がいいとか感性溢れるとか、打てば響くとか、若き才能とか、当意即妙・・・なんかは頗る怪しい錯覚かも?と疑問を感じはじめている。
時代の先端で活躍する人々を長い間裏方として身近に見ているうちに、若さゆえの感性や飛び抜けた個性は確かに一瞬光り輝くのだが、結局最終的な能力に結びつくためには地味な洞察力や地道な行動力などが必要なのであって、線香花火的派手さは一過性の目くらましに過ぎないとまで考えるに至ったのだ。それに剥き出しの若い感性は人を傷つけもする・・・。

しかしなんだって若い頃はあんなに沢山の未知なるものを、あっさり好き嫌いで切って捨てていたのだろう? その区分けや自信はどこから来ていたのかつらつら考えると、なぁに簡単な事だ。流行り廃り、つまり流行ものや目先ばかり追いかけて判断していたのに過ぎない。だから時代とともに褪せ、滅び、結局は何ひとつ身に付かなかったまでだ。
好きだ嫌いだだけに固執して老人になっちまった人はだから孤独。進歩がない。

変わり身が遅い不器用な人間のコツコツ重ねた人生が光り輝く時は、まるで燐光を放つがごとく五臓六腑にまで染み込む力がある・・・早咲きより遅咲き人間のほうが社会全体を通じて言えば、ひょっとして人を励まし勇気づけるような、そんな力、完成度を有しているのではないだろうか。
若い頃器用だった人がいつのまに消え、平凡だった人がじっくり実力を付けのしあがってくるのを何度も何度も見ているうちに、「即決・感性命な人生なんてあげ底の花見弁当みたい、ゴミになって捨てられるだけ」と臍を噛む思いの私も、実は早咲きゴミ捨て人間だ。先日来、昔の子供部屋を整理していて自分の16歳の作文集を発見、早熟ぶりと進歩の無さに呆れかえったばかりである。一点で足踏みしていただけ。これでは理想の老境に到達できない、と発奮。

60にして化すというではないか、化すとは反省する事なので陽のかげりなど日がな一日、目で追いつつ深く内省してみる。すると、自分にも柔軟さがまだ残っているように思えてきた。頭の中の纏まらない考えをぼわ〜んと膨らませ、ほわほわ暖めている内に、ある日ヒョイと「何を」考えていたのかはっきり見えてくる、「おっ?」と思うわけだ。そこですかさず「む!?」...と推考し「やゃ!」と張りきり「行け!」と己の脳内ドーパミンをこれでもか!っと全開してみる・・・ま、独り遊びをしているわけだが、この独り遊び、意外にも芸が要る。芸というものは身につくまでは時間がかかると言うものだ。かくして芸をものして隠居になった最近の日常生活のほうが、なんと退屈するところがない。

老いてしまえば感性なんて・・・と若き友人が今のみを焦るならば豈図らんや・・・最後までアンテナをたてるつもりで人生の時間という芸道を行くべし・・・と励ましてみる。

ところで前衛写真の巨匠として知られる森山大道さんの生き方だが、私にとって真の時間道という芸を、ものの見事に体現されたお方のように思えるお人なのだ。
私にとって思い出すたびに赤面してしまうこんなエピソードがある。

・・・今からおよそ30数年も昔、お仕事で週刊誌のファッションページをご一緒する機会を得た。
当時からアンダーグラウンドの教祖的存在で写真は賞を総嘗めに、作風は過激で前衛的なモノクロ画面が強烈な写真家。そんな大芸術家の彼が珍しくもヤング向けの大衆週刊誌(女性自身)でフォークロワ風ファッションを写すというので驚いた。担当者が「森山さんの大ファンだから・・・」と無理を承知で懇願したらしい。

作風を知っていた私は、尊敬しつつも不安で不安で・・・長短のレンズを使い分けながらモデルに肉迫する大道氏に失礼にも煩くついて回って、
「足元写ってますか?この組み合わせは靴が重要、見せたいので・・・」とか確認するのである。
全く無礼千万なり!であるが、大道氏得意の一ケ所クローズアップでは商品提供のメーカーに申し開き出来ないとばかり、新人スタイリストの私も必死で天下の才能に食い下がるの図・・・。
福生の小さいトウモロコシ畑のロケは大道氏の手によるレンズの魔術で見事にアメリカン・カントリーに蘇っていた。行ったことないけど、まるでノースダコタだ!が、それは後に印刷されて知ったこと。現場では見た目で想像するのみ、ポラロイドもビデオも無い時代だ。

全ての撮影が終わった時、休憩と食事のために入った民宿で図々しくも煩かったほぼド素人の私に氏はポツンと、
「自分は、ファッション写真に向いてる?」といったような意味のことを尋ねられた。
「向く向かないというより大道さんのように真の芸術家は、こんなコマーシャリズムな仕事をしてはいけないと思います」
あれを撮れここを写せと、コマーシャリズムに迎寓させた当の本人が生意気の連続攻撃だ。
「そう?」若き大道さんは静かに反芻した。

その半日の撮影で、さすがにおバカな私にも大道氏の才能、人となり、誠実さがしっかり伝わったのである。すっかりファンになっていた。
願わくば食べて行く・・・という手段だけであるのならこうした“商業的な写真”を撮ってほしくない・・・そう切実に思ってしまったのだから正直に口にしたのだが、おっちょこちょいたる所以である。

偶然か、ひそかに考えていらした事と一致したのか、それから大道氏は一時期、まったくカメラを持たなかった。
大きな事を言っておいてクヨクヨする質の私は、ある責任を感じて良心が咎み冷や汗を百リットルかいた。

大の男が一生の事として採る己のスタンスだ、たんなる偶然に過ぎないのは言うまでもないが、その後いわゆるファッション・広告に全く手を出さなかった大道氏を私は密かに誇りに思い嬉しかった。更に後『世界の大道!』として復活なるのは周知のことだ。
そして先日沖縄、那覇界隈をコンパクトなカメラ一つで飄然と佇んでいる懐かしい、というより、ほとんど見知らぬ面影の写真を拝見しつつ、宇多田ヒカルを激写した見事な写真を眺めながら自分の老いた頬をさすり、
「多く得る者は多く失い、少なく求める者は永遠だ、ってこれは真実ね」と訳のわからぬ独り事を言い、氏の健在を更に喜ぶ私なのだった。
つまり安易な方法論を除外したところで生きた氏の作品は不滅なのだ。森山大道氏は人生時間という長さ・・・をいつまでも新鮮なまま切り取る物差をしっかりと身にお持ちだった。

人間、「金と名誉とを一致させて考えてはいけないものだ」とそろそろ知っておくほうが良い。
付け加えるならば、人の最終選択は誰の言葉に因るべくもなく自分の目指す出口を何処に見い出すか!の自己責任なのだ、いつの時代も芸術は厳しく遠いことに変わりはない。
だから今日も私は「苦しむ人イコール芸術する価値あり!多いに苦しもう」とか「栄誉と金はイコールしない、金なら商売人に!どっちを取る?」とか根拠のない励まし方で若い人達を煽りつつ、沢山の先輩の背中に実は感謝と拍手を送っている次第なのだ。

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