自分力

人間はみかけによるのか、よらないのか、さてどちらだと思われるだろうか?
最近の犯罪、男も女も普通の人が突発性発作のように起こすので、妙に恐い。さもありなん、というところの犯罪の根拠がうかがえない。
女人の犯罪の多い事も解せない一つだ。一体全体何が起きてしまっているのだろう、ここ20年間の日本に?
「関係ないね」と嘯く(うそぶく) のは、同じ国土に住まう人間として考えないほうが恥ずかしいので、これは一体なんだろうとグチグチと考えてみたら、ねたみに行き当たった。 人間の弱さが最も出てしまう感情だ。
夫の同僚の子を殺めてしまった女人の顔をTVで見ても腑におちない。犯罪者に見えないのである。日常ですれ違っているやもしれない普通の人、むしろおとなしそうな美人。特殊な人間とはとても思えない。
ということは一見普通の人でもこんな危なっかしい精神状態の人間が多い!ということかもしれない。 加害者にならないとしても、感性の機微に鈍感であれば被害者になることさえある危うさだ。
「羨ましかった・・・」
犯した罪の大きさのわりに動機であるところの嫉妬の理由がみみっちいのにも驚く。そんな一晩眠れば忘れてしまうような事で赤子の命を奪い、その結果、殺人者の母を持つこととなる我が子が味わうであろう絶望感を事前に思い描けないとは、想像力の欠如としか言いようがない。
しかも、しかもここが一番恐いのだが、犯人は極一般的主婦、子持ちの母なのだ。ぎゃあ〜である。
主婦は家庭の太陽、犯罪とは無縁でいてほしい。悪妻、悪女、はあっても悪母というのは語呂も悪いしね。統べての生命力の根源は母体からなんだ!という自覚ある聖域であってほしいのだ。
親も教育者も何かを教え忘れて20年の間にここまで日本はきてしまったのだろう。見過ごした我々とともに無表情、無感動な若年世代が増えてる分、芯の奥深い部分が痛むのは私だけではあるまい。

競べるべきは持ち物や貯金、夫の地位なんかでは断じて無い。唯一く比べ競うべきものがあるとすれば、それは自分自身の今日と昨日にである。この事以外何一つ競べる事に利点や意味はない。
自分の今が昨日の自分より1ミリでも進歩しているか?はたまた退歩してしまったか、現状のままか?

才能や美醜、金銭の有る無しは人それぞれ深浅がある。天の配剤もある。天を味方にするには少なくとも三代に渡って陰徳を積まねば成らないという。ならば血脈や自分がなしえなかった積善や努力の結果を競べ羨むのは無意味というものだ。
自分のなし得た結果にスポ−ツマンのように素直に喜怒哀楽すればよい、感情を素直に表に表わせる人は健康だし、その分幸せが解りやすい。
解りやすい幸せとは・・・
極論的に言うならば、親は幼児に「悪い競争心=自分の成さなかった努力=羨む」という不幸感の図式的芽を伸ばす気配を微塵も与えないように育てることだ。
「自分との闘いに克つ」スポーツマンなら心得ている上質の競走心こそ教えたい。
くり返し「不幸になりたくなければ、人と自分を比べてはいけない。比べるならば昨日より今日の自分が良い子だったか努力したか?自分の胸に問いかけなさい!」
そんな「自分力」への挑戦を・・・歯を磨くことと同じようにくり返し教えるべきだと思うがいかがだろうか。

そんな簡単なことじゃないよ!と賢人は言うかもしれない、簡単を複雑にしているのが教育者だ。でも言っておく、できるかぎり単純が良い、人を羨むな。そして元子供じゃない真の大人(たいじん) が育つべく、幼児のうちに喜怒哀楽を教え人を羨むな!と何回も女親が我が身とともに水の滴り、したたりて水瓶をみたすがごとく擦り込もう。

などとぼちぼち書いていたら、またもや女人の犯罪、あろうことか同僚を切り刻む事件。もう考えるだに恐ろしいほど魂消たので沈黙するしかない。何か大事なものを教え忘れているような日本。嘆息。
・・・すべてのひとは 幸福(たのしみ) を好む
     されば おのれ自らの たのしみを求むる人 もし刀枝(つるぎ) もて
        他人(ひと) をそこなわば 後生(のち) にたのしみあるなし・・・法句131


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